北多摩戦後クロニクル 第39回
1995年 東村山で下宅部遺跡発見 縄文人が極めた漆工芸の技

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年10月3日

 1995(平成7)年、東村山市の狭山丘陵南側の谷を流れる北川(荒川水系柳瀬川の支流)左岸に約2万平方メートルの規模で広がる「下宅部(しもやけべ)遺跡」が発見された。約13000平方メートルの調査で出た総数20万点以上の遺物のうち、縄文時代後期の特に木製品などの有機物が大量に出土した上、鮮やかな朱の漆塗り製品が目を引く全国的にも貴重な遺跡であることが分かり、2020年国の重要文化財に指定された。

 

漆塗り土器

ベンガラ漆塗り土器(東村山ふるさと歴史館提供)

 

有機物を残した低湿地遺跡

 

 狭山丘陵は東京都と埼玉県所沢市にまたがる、武蔵野台地の中に浮かんだ離れ小島のような緑豊かな丘陵地。縁辺に当たる東村山市多摩湖町で都営住宅建て替えの計画が持ち上がったことから1995年、遺跡の有無を確認するための調査が行われた。遺跡の存在が予想されていたわけではなく、過去に近くで縄文時代の遺跡が発見されていたことから、いわば念のための調査だったという。

 ところが、この地域としては貴重な縄文時代後期のものがまとまって出土し、特に低湿地であることが幸いして残された木材や食料の遺物が見つかり関係者を驚かせた。「下宅部遺跡」と名付けられ、翌年8月から2003年3月にかけて本格的な発掘調査が行われた。

 下宅部遺跡からは旧石器時代から中世にわたる時代の遺物が出たが、何と言っても約4000年前から約3000年前までの縄文時代後期のものが数多く、内容的にもクローズアップされた。この地域には川幅数メートルの浅い川が流れており、その後も地下水によって水に浸かった状態だったため、有機物が腐らずに残された。

 

丸木舟

丸木舟未製品調査風景(東村山ふるさと歴史館提供)

 

 当時の人々はここを居住地ではなく水辺の作業場として利用したらしく、それを物語る遺構、土器、石器のほか木製品、獣骨、植物の遺物などが大量に発見された。約9500点が出土した木質遺物では、弓や容器のほか、かごや縄、水場で利用した杭などが見つかった。魚を捕るために使う丸木舟の未完成品と思われる全長6・6メートルの大型出土品もあった。食料加工場所として盛んに使われたことを物語るクルミ、トチ、ドングリなど堅い殻をもつ果実が多く出てきたほか、狩猟の獲物を解体した跡も発見された。

 

遺跡を特徴づける漆製品

 

 下宅部遺跡の最大の特徴が漆塗りの製品だ。縄文時代には既に高い漆塗りの技術が確立していたと考えられ、全国各地の遺跡から出土例は多い。しかし低湿地遺跡としての条件も幸いして下宅部遺跡の漆出土品は有数の規模と内容を誇っている。現在ではウルシの木がない狭山丘陵だが、当時は管理栽培し樹液を採取していたことを物語る遺物も見つかっている。縄文時代のウルシ樹液採取の具体的資料が発見されたのは全国的にも初めてだった。

 

漆塗り弓

漆塗り弓の出土状況(東村山ふるさと歴史館提供)

 

 漆塗りの出土品で注目を浴びたのは飾り弓だ。まとまった数で出土した弓には実用と儀礼用とがあったが、いずれも折れており、中には明らかに人為的に折られているものがあった。このことから、狩猟の際に折れた弓は持ち帰り、それがなかった場合はわざと折って神への供え物や狩りの成功への感謝などの祈りを込めた祭祀に使ったのではないかとみられる。漆塗り弓は高性能な実用品と考えられ、そのために優先的に儀礼に使われたらしい。

 土器にも高度な技術で漆が塗られているが、装飾のほかに接着・補修という実用で利用された例が47例見つかった。縄文人はウルシを縦横に用いて高度な文化を築いていた。

 2020年9月、下宅部遺跡の出土品392点が「縄文時代における漆工芸の技術を知る上で貴重」として国の重要文化財に指定された。

 

長く続く「祈りの空間」を後世に

 

 下宅部遺跡で水辺作業を行った縄文人の住居はどこにあったのか。はっきりしたことは分かっていないが、東村山ふるさと歴史館学芸員の千葉敏朗さんによると、下宅部遺跡から北川を挟んで南側で部分的な調査が行われた日向北遺跡が有力な候補地だという。このほかにも今では住宅地となったこの一帯には縄文後・晩期の遺跡群があるが、調査は進んでおらず全体像の解明は今後の課題だ。

 縄文晩期以後は人の住んだ跡が消え、弥生時代の遺跡はほとんど出ていない。河道の変化が影響しているのではないかという。その後、古墳時代以降になると再び遺構・遺物が増え始め、奈良時代のものとみられる池状遺構が見つかって注目された。東西12メートル、南北5メートル、深さ1・5メートルの人口の池で、実際に人が渡るためのものではない「見かけ上の橋」が渡されていた跡があった。墨書土器片や未使用の鉄製品などの出土品と併せて考えると、何らかの祭祀が行われていた場所だったらしい。中世にかけてもこの地域からは仏教系の遺物が多数出ている。

 千葉さんは「縄文時代には作業の場であり祭祀の場所であった下宅部遺跡は、古墳時代から古代・中世にかけても祈りの空間だった」としている。

 

下宅部遺跡関係案内図

下宅部遺跡関係案内図(東村山ふるさと歴史館提供)

下宅部遺跡はっけんのもり

下宅部遺跡はっけんのもり

 

 遺跡調査終了後、最重要地点約3000平方メートルは地下に遺跡が眠ったままの状態で「埋没保存」することになった。郷土の価値を再認識し後世に伝えていこうと、市民らがこの場所を遺跡広場として整備することを計画、2004年「下宅部遺跡はっけんのもり」が生まれた。「日本の歴史公園100選」の一つにも選ばれた。

 また、狭山丘陵の自然と人々の暮らしを学び体験できる施設として2009年にオープンした「八国山たいけんの里」では、遺跡の出土品展示や縄文の暮らしを体験するイベントなどが行われて、市民が遺跡を身近に感じられる取り組みが進められている。
(飯岡志郎)

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【主な参考資料】
・千葉敏朗『縄文の漆の里 下宅部遺跡』(新泉社)
・東村山市ホームページ「下宅部遺跡」
・タウン通信「東村山出土の縄文土器に“漆塗り”の謎」
・東村山ふるさと歴史館発行パンフレット類

 

 

飯岡 志郎
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