北多摩戦後クロニクル 第42回
2002年 早大ラグビー部が「さらば東伏見」 74年の歴史に幕、今も学生スポーツの聖地

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年10月24日

 2002年7月、早稲田大学ラグビー蹴球部が西東京市から杉並区上井草に移転、74年間にわたる「東伏見」での歴史に幕を閉じた。同ラグビー部は1918(大正7)年創設、幾多の名選手を生み、大学日本一16回、社会人を含めた日本選手権でも4回優勝するなど大学ラグビー・ナンバーワンの戦績を誇る。ラグビーのほかにもサッカー、野球、馬術などさまざまな施設を持っていた早大東伏見キャンパスは今も学生スポーツの聖地として活気を維持し、周辺の住民にとっても憩いと交流の場になっている。

 

早大ラグビー部

東伏見グラウンドでの早大ラグビー部の練習風景(1980年ごろ)=早稲田ラグビー俱楽部提供

 

西武鉄道が敷地提供、ラグビー強豪の誕生

 

 早大ラグビー部は2023年で創設105年を迎え、慶応大などに次ぐ長い歴史を誇る。当初は東京・新宿の戸塚球場や軍用地を借りて練習していたが、1928(昭和3)年、西武鉄道から北多摩郡保谷村上保谷の10ヘクタールに及ぶ土地の寄贈を受け、ラグビー部も西側の一角を練習場とした。他校からはうらやまれたが、石神井川沿いの田畑だった土地をグラウンドに整備するのは大変で、部員は草取りやローラー引きに時間を取られ、ひとたび雨が降れば田んぼに逆戻りしたという。

 上保谷一帯の開発は京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請しての東伏見稲荷神社の創建、住宅地分譲などと続き、西武新宿線の駅名も「上保谷」から「東伏見」となった。

 第二次大戦のため44年3月から46年春まで部活動は事実上停止となり、第二次学徒出陣に応じた部員の中には戦死者も出た。終戦直後はグラウンドの一部が菜園となって部員の食料不足対策に一役買っていた。

 ラグビー部員用の寮確保などにはOB会の尽力が大きく、実力向上のための条件は順次整えられた。選手たちはそれにこたえるように何度も黄金時代を築いた。特に「早稲田ラグビーの父」ともいわれ、現在に続く戦法の基礎をつくり上げた大西鐵之祐氏が50年以来3度、9年にわたり監督を務め、伝統の維持と強化に貢献した。

 大西氏が95年に死去した後、2001年から2005年までの清宮克幸監督時代も5年連続関東大学ラグビー対抗戦優勝、大学選手権でも3回優勝の輝かしい結果を積み上げた。

 現在は新興勢力を含めた各校も急速に実力を上げて戦国時代ともいわれるが「えんじと黒」のジャージの早稲田に対して「紫紺と白」の明治大によるライバル対決は特別だ。「重戦車」との異名を取った明治のフォワードを中心とする“タテ”の突破力に対して、技とスピードを武器にオープンに展開する早稲田の“ヨコ”の攻撃のせめぎ合いは常にラグビーファンを魅了している。

 

早稲田ラグビー部

東伏見での練習風景、右後ろは「早稲田ラグビーの父」といわれる大西鐵之祐監督(1981年ごろ)=早稲田ラグビー俱楽部提供

 

温かかった東伏見の人々

 

 「東伏見は私たちに温かかったですね」と語るのはラグビー部のOB会「早稲田ラグビー俱楽部」の副会長金澤聡さんだ。現役選手時代はフォワードのロックで、1979年には主将として対抗戦グループ2位、大学選手権では準決勝に進出した。その後もコーチとしてチームの強化に貢献した。

 「東伏見のグラウンドといえば泥の印象。雨が降るとぬかるみ、乾くと土ぼこりがひどくて近所から苦情も来たものでした」。このグラウンドの問題が後の上井草移転の伏線となる。

 練習の合間には東伏見駅周辺の飲食店に繰り出した。焼き鳥屋、中華料理、そば屋…。早稲田スポーツマンが地域に活気をもたらし、住民たちも自然に「早稲田ファン」になった。「時々羽目を外すやつもいましたが、地域の皆さんはおおむね寛容でした」

 

早稲田大学ラグビー部

「Farewell(さらば)」と刻まれた記念碑の序幕(2002年7月7日、東伏見グラウンド)=早稲田ラグビー倶楽部提供

 

 もともと低湿な土地だったグラウンドの移転話は行政の石神井川改修計画とともに進んだ。石神井川はたびたび氾濫し、流域の住宅にも浸水した。さらにグラウンドを芝生化したいというラグビー部の長年の夢をかなえるチャンスでもあった。OB会が出資してできた合宿所を提供するなど大学側と交渉した結果、上井草の大学所有地と交換し、新たに芝生のグラウンドを整備、近代的な設備のレーニング室、寮も建設された。

 2002年7月7日、東伏見グラウンドでさよならイベントが開かれた。当時の清宮監督をはじめOB、関係者が家族連れで参加、1万4000人が東伏見への別れと感謝をささげた。グラウンドの一角には「Farewell Higashi Fushimi(さらば東伏見)」と刻んだ記念碑が立てられた。

 ちなみに筆者はラグビーグラウンド西側に隣接する都営住宅で子供時代を過ごした。簡単に忍び込めたグラウンドは格好の遊び場だった。練習が始まると追っ払われたのは当然だが。東伏見駅から東伏見稲荷神社までの参道の途中に銭湯があった。内風呂がない家が多かった60年代には大いににぎわった。夏のある日だったと思う。銭湯の前の道に、明らかに練習後のラグビー部員らしきお兄さんたちがたむろしていた。そこへホースを借りてきた部員が水を掛け出した。風呂に入る前に泥を落としていたのだろう。豪快でカッコいい風景だった。

 

早稲田大学ラグビー部

上井草グラウンドでの試合(2023年6月、対流通経済大)

 

住民の憩いと交流の場にも

 

 ラグビー部は移転したが、広大な東伏見キャンパスにはさまざまなスポーツ施設、研究棟、学生寮などが次々に整備されている。東伏見駅南口に以前あった屋外プールの跡地には生協スーパーやコンビニも備えた大規模な研究棟が建った。

 

東伏見グラウンド

東伏見キャンパスの案内図(右端が旧ラグビーグラウンドで、現グラウンドホッケー場)

 

 

 敷地南西角に野球部の練習野球場がある。2010年には神宮球場と同じ仕様の人工芝に改装され、さらに15年11月「安部磯雄記念野球場」と改称された。もともと早大高田馬場キャンパス(東京都新宿区)に戸塚球場があり安部球場と呼ばれていた。安部磯雄は明治から昭和にかけての社会運動の先駆者で、早大の前身東京専門学校の講師だった1901年に野球部を創部し、部長に就任、翌02年野球部専用の戸塚球場を新設した。学生野球を中心に使用され、日本で初めて照明を設置しナイターが行われた。

 1987年11月22日の全早慶戦をもって球場は閉鎖され、球場跡地は国際会議場などが入る早大の総合学術情報センターになった。

 東伏見の安部磯雄記念野球場では定期的に地元住民への開放日が設けられ、家族連れがくつろいだり、子供たちに野球を教えてもらったりする姿が見られる。

 早大野球部で活躍し、2006年の早慶戦では劇的なサヨナラホームランを放った佐伯謙司郎さんは「球場が人工芝になって、整備しやすくなったので外部からの受け入れも可能になったと思います。私も子供たちに教えたものですよ」と話す。

 佐伯さんは実家が東伏見キャンパスの近くにあったが、4年生の時は寮に入った。「仲間と飲みに行って騒いだという記憶はあまりないですね。むしろ時々実家に呼んで食事したものです」。施設が近代化するとともに学生の“バンカラ”気風も薄れたのかもしれない。

 

安倍球場

安部球場の開放日(2023年5月)

(飯岡志郎)

*連載目次は>>次のページ  

 

【主な参考資料】
・『保谷市史 通史編3』
・「旧西武鉄道の経営と地域社会」(『東村山市史研究 第4号』)
・『西武全線古地図さんぽ』(フォト・パブリッシング)
・『早稲田ラグビー六十年史』(早稲田大学R.O.B倶楽部)
・『早稲田ラグビー百年史』(早稲田大学出版部)
・『ありがとう東伏見―早稲田大学ラグビー部写真集』(ベースボールマガジン社)
・「銅像歴史さんぽ・西東京編1「安部磯雄・飛田穂洲」」(ひばりタイムス、2019年10月10日

 

 

飯岡 志郎
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