北多摩戦後クロニクル 第27回
1973年 武蔵野線が運行開始 北多摩を南北に貫く鉄路の実現
1973(昭和48)年4月1日、JR武蔵野線が府中本町駅(東京都府中市)―新松戸駅(千葉県松戸市)間で運行開始された。東京・多摩地域と埼玉県へ南北に貫く鉄道はそれまでに無く、以前からの夢が実現した形だった。しかし当初は貨物輸送が主で、北多摩沿線住民からすれば西武鉄道との接続が不便な上、旅客用電車の本数も少なく恩恵は今一つだった。その後、首都圏の拡大に伴って鉄道インフラとしての重要性は急速に増し、本数や駅数の増加、他線との直通運転など利用客向けのサービスも徐々に向上して、今では地域にとってなくてはならぬ生活路線となった。
■ 東京外環鉄道への長い夢
東京都心の環状鉄道として1925(大正14)年、山手線が運行開始された。直後からその外周に私鉄による環状路線を設ける「第2山手線」が構想された。当初の計画では大井町駅(品川区)を起点に、現在でいえば、馬込(大田区)―明大前(世田谷区)―中野(中野区)―西武新宿線・新井薬師(同)―西武池袋線・江古田(練馬区)―板橋(板橋区)―駒込(豊島区)を通り、東側は田端(北区)―北千住(荒川区)―向島(墨田区)を経て、洲崎(江東区)に至るはずだった。現在の環状7号線にほぼ相当するルートだ。
建設費捻出の問題や戦時体制へと移る中で計画は挫折したが、鉄道にせよ道路にせよ東京郊外を環状に走る交通インフラの整備は歴史的な課題だったことを物語っている。
武蔵野線は戦前から東海道本線方面と東北本線方面を結ぶ山手貨物線のバイパス路線として計画された。戦後は京浜工業地帯と京葉工業地帯とを連結させる目的も加わった。64年に日本鉄道建設公団によって工事が始まり、73年4月1日、府中本町―新松戸間(57.5キロ)が開業。その後76年3月1日に府中本町―鶴見(28・8キロ)が開業した。78年10月2日には新松戸―西船橋間(14.3キロ)が延伸し、88年12月1日、京葉線との直通運転を開始した。
73年開業当時の駅は17、通勤時間帯は15-20分間隔、日中は約40分間隔で運行していた。そのうち12駅には当時最新鋭だった自動改札機が設置され、10駅に自動精算機導入、4駅に定期券発行機を設置するなど、最先端設備の実験路線ともなった。貨物輸送のため、新座・越谷に年間150-200万トンの貨物を扱う貨物ターミナル駅も誕生した。
現在、武蔵野線は鶴見駅(横浜市鶴見区)から西船橋駅(千葉県船橋市)まで、東京都、埼玉県、千葉県を結ぶJR東日本の準環状線(100・6キロ)として運行されている。鶴見―府中本町間は武蔵野南線と呼ばれ、ほぼ貨物専用線になっており、府中本町―西船橋間は貨物・旅客の兼用路線だ。
■ 必ずしも歓迎されなかった建設
北多摩地域を通る武蔵野線の建設は沿線地元からは必ずしも歓迎されなかった。特に東村山市では組織的な反対運動や市議会を巻き込んだ厳しい議論があったことが『東村山市史』に見えている。
日本鉄道建設公団は東村山市内部分の大部分を掘割方式で建設するという計画を示した。これに対し地元住民らから「騒音に悩まされる」などの反対意見が続出し、66年には「武蔵野線対策同志会」が組織されて反対運動に発展した。建設反対の陳情を受けて市議会でも議論が戦わされた。
その後条件闘争となり、東村山市内は全面地下鉄方式とし、市内の設置駅を2カ所にするとの2点を条件に公団側との折衝が続けられ、68年4月、西武池袋線から新駅に接続する引き込み線の新設、地下路線の短縮と掘割式に変更の2点が公団側から打ち出された。
折衝と併行して続けられた地下工事の影響で道路陥没や地盤安定剤が井戸に混入するなどのトラブルが続発。公団側は対応に追われた。
このような紆余曲折を経て武蔵野西線は開通したが、その後武蔵野南線が開通すると貨物輸送が本格的に始まり、1日に173本の貨物列車が通過して東村山市秋津町を中心に騒音、振動等による公害が問題とされるようになった。この問題は国会でも取り上げられ、国鉄は新秋津駅から北の高架部分に防音壁を設けるなど対策を講ずることになった。
小平市でも小平市議会が対策特別委員会を設けて工事計画の検討と議論が交わされた。『小平市史』などによると大きな反対運動は記されていない。しかし、開通後の1991年10月、台風21号による大雨のために新小平駅が水没する大規模な事故が発生、約2カ月にわたって西国分寺―新秋津間が不通となった。特に貨物輸送が寸断されたことにより50億円以上の被害が出た。周辺でも地盤陥没が発生して住民が一時避難する騒ぎになった。武蔵野れき層を流れる地下水の上昇圧力に耐えられなかったのが原因で、工事計画が甘かったとの反省がなされた。
■ 沿線地元との微妙な関係
武蔵野線が通過する小平市、東村山市、清瀬市の計約10キロには新小平、新秋津と駅が2つあるが、いずれも西武鉄道とは接続していない。西武新宿線とは久米川駅付近で交差しても駅はできなかった。理由は諸説あるものの高額な建設費に見合うメリットが見いだせなかったのだろう。西武新宿線は全体としてJR線と接続が悪く、西武鉄道が国鉄、JRとの接続を嫌っているのではないかなどさまざまな憶測を生むことにもなった。
同じように池袋線と交わる東村山市秋津町にできた新秋津駅は池袋線の秋津駅とホームや地下通路で接続することにはならなかった。これも理由ははっきりせず、旧国鉄側が断ったという説や、客足を奪われるとの懸念から地元商店主らが反対したとの説などがある。
「悪天候時には不便極まりない」と乗り換え客らからは悪評だったが、結果として約400メートルの両駅間には飲食店などの商店が連なり、人気店も増えてにぎわうことになった。同市は現在、両駅を中心とした周辺地域を整備、再開発して活気を盛り上げる計画を進めている。
最後に武蔵野線にまつわる個人的な思い出を一つ。1987年ごろの、ある日曜日のことだった。埼玉県三郷市の江戸川河川敷に作られた野球場で社内野球があり、自宅がある東村山市から参加しなければならなくなった。「さてどういう経路で向かえばいいのか?」。私にとってなじみが薄かった武蔵野線を利用する手があることは最初分からなかった。貨物専用線で使い物にならないのでは、ぐらいに思っていた。
当日は自転車で新小平駅に行き、新松戸行に乗って50分、田園風景の中をひたすら走って到着した三郷駅は「とんでもなく遠くに来たな」というのが実感だった。人工的な光のほとんどなかった夜の高架区間では「銀河鉄道のようだった」と話す人もいる。
帰りの車内は、私と同じように草野球のユニフォーム姿のままのサラリーマンや行楽帰りの家族らが目立ち、都心の通勤電車とは違うリラックス感が漂っていた。さすがに缶ビールを開ける人は見なかったが。
(飯岡志郎)
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【主な参考資料】
・『東村山市史 2通史編 下巻』
・『小平市史 近現代編』
・『武蔵野線まるごと探見』(JTBパブリッシング)
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