スタジイ公園

民族学博物館(保谷民博)跡地の一部がスダジイ広場に

投稿者: カテゴリー: 文化 オン 2023年1月2日

 長らく空地になっていた西東京市東町1丁目の旧清水建設社宅跡地に12月中旬、コンビニが開店し、隣に「保谷スダジイ広場」がオープンしました。12月20日、敷地の持ち主である清水建設が関係者を招き、オープニングセレモニーが行われました。この土地には以前、民族学博物館(保谷民博)があったのです。いまは知る人が少なくなったその歴史を、下保谷の自然と文化を記録する会の松田宗男さんが紹介します。(編集部)

 

時代を先取りした保谷民博

 

 「民俗(族)学を学ぶなら保谷へ行け」と言われた時代があったそうです。渋沢栄一の孫渋沢敬三と在野の民俗学者で「武蔵野の欅」と称された保谷在の高橋文太郎などの熱意と寄付により、1939年に日本で初の野外展示場を持つ民族学博物館(通称・保谷民博)が現在の西東京市東町1−1に開設されました。

 時代を先取りした博物館は、維持経営に行き詰まり、残念ながら1962年閉館してしまいました。野外展示物の一つ高倉は、東京小金井の「江戸東京たてもの園」に移築され現存しています。また、民具などの標本21,000点余は国に寄贈され、現在の国立民族学博物館(大阪府吹田市千里万博公園)に引き継がれています。敷地の一部に残っていた民族学振興会も1983年に役目を終えています。

 

銘板

銘板は公園内に移された

 

 建物は壊され、清水建設の社宅となりました。2009年11月8日、民族学博物館があったことを記す銘板が、社宅の正門前の歩道に建てられていましたが、スダジイ広場の開園を機に、敷地内に移設されました。

 

清水建設(前身は清水組)と渋沢家の関係

 

 明治期の日本建築界に大きな影響を与えた清水組・二代目清水喜助が、第一国立銀行建築を手がけたことが渋沢栄一との出会いになります。さらに1878年に深川福住町(江東区永代)の渋沢邸も嘉助の手で完成しました。その後、栄一は相談役として1887~1916年の30年にわたり現在の清水建設と公私にわたり関係を続けていました。その後、渋沢敬三が祖父の渋沢栄一の邸宅を受け継ぎ、1929年から1930年にかけて増改築し自邸として住んでいました。1934年には、日本常民文化研究所の始まりとなる「アチック・ミュウゼアム」もこの住宅の脇に建てられていました。

 渋沢邸は、戦後の財閥解体時に政府に物納され、暫く大蔵省の施設として使われていました。その後、敬三の執事で後に十和田市の実業家であった杉本行雄に払い下げられ、青森県三沢市内の古牧温泉敷地内に移築されました。

 2018年に旧渋沢邸は、清水建設が取得し、江東区から「旧渋沢家住宅(部材)」として文化財指定を受けました。完成から140年以上経過している2階建木造和風建築を江東区潮見の「潮見イノベーションセンンター」(仮称)の敷地内に蘇えさせ、2023年に完成することになっています。

 

保谷スダジイ広場が完成

 

スタジイ公園

公園のスタジイ。右下は説明板(はめ込み合成)

 今度、清水建設の厚意により、保谷民博跡地の一部に2022年12月中旬にコンビニとその南側に当時から植えられていたスダジイ(Castanopsis sieboldii subsp. Sieboldii)をシンボルとした広場が造られました。スダジイは別名シイ、シイノキともよばれ、シイという場合には本種を指します。アク抜きすれば食用になるドングリを沢山実らせ、木材は木炭、シイタケ栽培に、樹皮は黄八丈の黒色の染色にと多用途に用いられます。

 スダジイ広場で腰を下ろし辺りを見回すと、博物館建設までの熱意、そして開館後は、当時の民俗学者たちの研究への情熱、開設後見学に来た子供たちの驚きが目に浮かびます。これからは、保育園の園児の散歩、遊び場の一つとして使われている姿も見られることでしょう。

 残された敷地内の南側にスーパーの建設も始まります。出来た暁には、買い物に来た家族の憩いの場所や子供たちの遊び場としても活用されることが期待されています。ヤジロベエを作って遊んだ子供たちに、保谷にかつてあった博物館の存在を知ってもらえれば渋沢敬三、高橋文太郎たちも喜んでいると思うとうれしくなります。
(松田宗男)(写真は、筆者と萩原恵子さん提供)

 

【筆者略歴】
 松田宗男(まつだ・むねお)
 1948年生まれ。保育園時から高校まで練馬区東大泉に在。現在南大泉に在住。
「下保谷の自然と文化を記録する会」会員、NPO法人科学教育研究所理事、杏林大学名誉教授。専門は、遺伝学。2022年7月、「記録する会」の萩原恵子さんとの共著『武蔵野鉄道が通る! -保谷周辺を中心に-』を刊行。

 

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民族学博物館(保谷民博)跡地の一部がスダジイ広場に」への2件のフィードバック

  1. 田中敏久(アースデイネット共同代表)
    1

    本文の主旨からは外れますが、日本文化を理解する上で重要な点なので記します。「スダジイの実はあく抜きしないでも食べられるので、縄文時代から日本では重要な食糧源だった」ということです。つまり、本文中の「アク抜きすれば食用になる」は「アク抜きしないでも食用になる」に訂正されるべきだと思います。非常に美味で、私は塩をしてフライパンで煎っておやつにしていました。御紙の愛読者としてよろしくお願いします!

    • 松田宗男
      2

      田中様 適切なコメント有難うございます。スダジイの実、ドングリは、アクが弱くコメントで書かれておられるように十分美味な食用になるようです。ただ、種が異なるドングリにはアクの強いものがあるので、違ったドングリを同じ方法で食さないでほしいと思っての文と理解していただければと思います。

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