北多摩戦後クロニクル 第2回
1946年 小金井カントリー倶楽部の接収 名門ゴルフ場を占領軍が独占使用

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年1月10日

 敗戦後、占領軍は軍務や宿舎のため各地の旧軍施設やホテルを次々接収したほか、将兵とその家族の娯楽・保養施設としてゴルフ場やテニスコートを差し押さえた。小金井公園に隣接する小平町(現小平市)の名門ゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」(小金井CC)も1946(昭和21)年に完全接収され、会員は締め出されることになった。

 

小金井カントリー倶楽部

小金井カントリー倶楽部

 

■  戦争下の受難

 

 小金井CCはゴルフ用具の輸入商、深川喜一が雑木林と桑畑だった土地を買収し、米国の名ゴルファー、ウォルター・ヘーゲンの設計で1937年に開場した。華族や財閥系の要人が幅を利かせていたゴルフ場を「誰でも自由にプレーできるように」とゴルフ場組織を株式会社とし、会員が株主になって運営する「株式会員制」という方式を初めて導入した。

 都心に近く自然豊かなコースは人気を呼び、東久邇宮稔彦王ら皇族や近衛文麿、五島慶太など政財界の大物が愛好した。しかし日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大する中で贅沢品の統制が進み、「特権階級の遊戯」と見なされたゴルフは受難の時代が続く。

 

小金井カントリー倶楽部全景

小金井カントリー倶楽部全景(1960年、小平市立図書館所蔵)

 

 競技の中止・自粛、キャディーの廃止、最終的には15割にまで達するゴルフ入場税の導入など規制が相次いだ。60歳未満はキャディーなしで自らクラブを運ぶ「鍛錬ゴルフ」が求められ、ゴルフ用語の日本語化によって小金井CCは「小金井打球会」、バンカーは「砂窪」、キャディーは「球童」などと改称された。

 全国のゴルフコースのほとんどは軍事施設や畑に転用され、1940年頃には国内のゴルフ場の大半が壊滅状態になった。小金井CCも陸軍経理学校が接収したインコースはさつまいも畑となり、経理学校の生徒が耕し、保谷町(現西東京市)の武蔵野女子学院の生徒が収穫した。軍用物資の輸送部隊も駐屯し、海軍の要請でフェアウェーの芝は剥ぎ取られた。

 国内に71あったゴルフコースのうち戦後生き残ったのは30のみ。小金井CCがなんとか命脈を保ったのは、防衛総司令官だった東久邇宮が足繁く通ったコースだったからだろうか。

 米軍の空襲は1945年春から激しくなり、コース内や練習場に次々に爆弾が投下され、爆風でクラブハウスの屋根は吹き飛ばされた。米軍機に銃撃された日本軍の戦闘機の一部が正門近くに落下し、パイロットが戦死する惨事もあった。

 

米軍ゴルファー

プレーする米軍ゴルファー(『小金井カントリー倶楽部50年史』から)

 

田中角栄のお気に入り

 

 敗戦後、状況は一変する。占領軍はインコースの陸軍経理学校を接収し、クラブハウス前には星条旗がはためいた。1946年1月にはコースを完全接収し、耕作や爆撃、カスリーン台風(1947年)で荒れ放題のコースをブルドーザーで整備したうえ、将兵たちが独占使用した。会員はプレーどころか、ロッカーの私物にさえ触れることができなくなった。

 倶楽部の理事会は接待攻勢を含めて米軍と粘り強く交渉を続け、1948年には理事20人のプレーが許された。米軍との「共同経営」を経て、米軍を臨時会員としながらも独立経営に復帰できたのは、51年のサンフランシスコ平和条約締結後で、接収から8年経った1954年だった。

 日本は朝鮮戦争特需から高度経済成長の急坂を駆け上ろうとしていた。57年に埼玉県川越市の霞ヶ関カンツリー倶楽部で開催された第5回カナダ・カップの日本優勝を機に全国的なゴルフブームがわき起こる。

 1960年代に入ると、ジャック・ニクラウス、アーノルド・パーマー、ゲーリー・プレーヤーといった米国のスター選手が次々に来場した。ゴルフ好きだった田中角栄は首相時代、再来日したニクラウスをゲストにプレーした。真偽は定かではないが、各ホールを足早に回る田中はキャディーやグリーンキーパーら従業員全員に1万円札を配って回ったというエピソードを残している。

 小金井CCの会員権はもともと日本でも最高水準額だったが、バブル景気絶頂の1990年前後、会員権相場は4億5千万円に達し、その高騰ぶりを米紙ニューヨークタイムズが報じた。現在も会員権相場は国内最高額の3千数百万円で推移している。

 

クラブハウス

2005年に改築されたクラブハウス

 

「女性拒否」が物議

 

 2020年の東京オリンピックで、ゴルフ会場に予定された霞ヶ関カンツリー倶楽部が正会員を男性に限定していることが「女性差別」として問題化した。しかし小金井CCでは、そのはるか以前に国会を舞台に同様の問題が表面化している。

 1985年、小金井CCで開かれた駐日各国大使と外務省幹部の親善コンペで、当時の森山真弓外務政務次官が、「女子には日曜のプレーを認めない」という伝統を理由にプレーを拒否された。森山政務次官は外務省を通じて抗議するとともに、国会外務委員会で「大変に遺憾」と答弁。男女雇用機会均等法の成立直後のことだった。折からの倶楽部の運営や人事をめぐる内紛は泥沼化して訴訟沙汰になった。

 それから30数年を経て、国際オリンピックから「改善」を要求された霞ヶ関CCの理事会は全員一致で女性正会員を認めた。一方、小金井CCでは20歳以上の女性なら平日にプレーできるが、正会員は今も「日本国籍を持つ35歳以上の男性」に限定している。

 倶楽部は本場の英米で「男性の社交場」だったコルフクラブの伝統を踏襲するとともに会員制のプライベートコースであることを強調し、「時代の変化に応じて議論は常にしているが、規約の改正には至っていない」とする。誰でも簡単にプレーできないところは、今も昔もあまり変わっていない。
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・『小平市史』
・『小金井カントリー倶楽部30年史』(小金井カントリー倶楽部)
・『小金井カントリー倶楽部50年史』(小金井カントリー倶楽部)
・『小金井カントリー倶楽部75年史』(小金井カントリー倶楽部)
・矢作正治著『小説 小金井カントリー倶楽部-深川喜一伝』(廣済堂出版)

 

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