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今、忘れてはいけないこと ― 西東京 非核・平和展に思う

By in 市政・議会, 催事・集会 on 2018年8月21日

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 西東京市は「非核・平和宣言都市」です。条例を制定して平和推進事業を推進し、1945年の空襲で50人以上が亡くなった4月12日を「平和の日」に定め、毎年夏に広島平和の旅、平和映画祭などを開いてきました。市民団体と一緒になって開いてきた「非核・平和パネル展」もその一つです。今年のパネル展に参加し、被災体験者らの声を聞いた穂坂晴子さんの思い溢れる報告です。(編集部)

 8月6日~10日、「非核・平和を進める西東京市民の会」主催の「非核・平和パネル展」が市との共催でアスタ2階で開催された。知人から「人手が足りない」という連絡を受け、空いている時間に受付くらいならと、軽い気持ちで会場に向かった。

 

パネルが並ぶ展示会場。右上に1トン爆弾の緑色の模型が見える(西東京市提供)

 

 会場には広島・長崎被爆当時の実相を示す写真や、現在の核兵器の状況などが数多く展示されていた。とりわけ、1945年7月29日、柳沢の「しじゅうから第2公園」に落とされた模擬原爆(パンプキン爆弾)の資料は、身近な所でこんな悲劇があったことを知る貴重なものだ。田無駅前周辺に落とされた1トン爆弾の模型も通る人の目をひいた。

 受付で案内のチラシや展示の説明をしながら、多くの戦災体験者と会った。ほとんどが高齢で、ポツリポツリと、ときには堰を切ったように体験を語った。軽い気持ちは吹き飛び、身のひきしまる思いがした。そこは、戦争を知らない私たちの学ぶ場でもあった。

 

 被災体験を語る

 

 「家のすぐ近くに爆弾は落ちたんです。一歩間違えば私も死んでいたんですよ」
 「知ってます? もうすぐ戦争が終わる前だったのに。広島や長崎の前に」
 たまたま寄ったという女性は、田無での爆撃の話を勢いよく話しはじめた。一緒に受付に座り、「体調不良だけど」と言いながら、当時の様子を思い出しながら語った。

 1945年(昭和20年)4月12日、田無駅とその周辺に多数の1トン爆弾が投下された。駅周辺だけで50人以上の人が亡くなった。戦後、市民の手で田無駅北口に平和観音像が設けられ、再開発に伴って総持寺の山門脇に移設された。駅前のロータリー広場に設置された「田無戦災記念碑」と「平和のリング」がその事実を伝えている。

 広島、長崎の惨状を目撃した人も少なくない。

 「私は岡山で、広島に落とされた原爆を見たんですよ。まるでストロボのようだった。その後、背中は焼けただれ、手に皮膚をぶら下げて歩いている人たちを見ました。剥がれた皮膚は、爪のところで止まるの。土に触れると痛いから、こうしてぶら下げて歩くんです。今でも忘れられない」
 資料を熱心に見ている女性に声をかけると、被爆者の歩く様子を再現しながら、淀みなく話した。そのあと「明日は受付を手伝いに来ますよ」と帰った。

 「長崎の大村で被爆しました。空襲警報解除後だったけど、すごいもんだったんだ」
 帽子を被った年配の男性は、見学後も近くのベンチに座り、爆弾の模型の前を通る人たちをずっと見ていた。

 「私、実は長崎の被爆2世なんです」。帰り支度をしていた私に、一人の女性が声をかけた。
 「今日は病院帰りですが、せめてと、いつも鶴を折って、長崎に送ってるんです」
 「帰りに1羽折ってから帰りますね」
 その女性は会場の片隅に設けられた「折り紙コーナー」に寄って「送るときはこう折るんですよ」と教えてくれた。
 「ここに座っていいですか? ここだと色々話せますね」
 コーナでは年配の女性たちが和やかに鶴を折っていた。

 展示には、広島で被爆し、元気になると願い、千羽鶴を折りつづけ12歳で亡くなった佐々木禎子さんの記事が貼ってあった。一緒のベッドで鶴を折り、「想い出の禎子」を書いたのは、西東京に住み2008年に亡くなった大倉記代さんだった。被爆体験を地元の中学生にも語り、平和の展示にも協力していたと知った。折り鶴をどんな思いで折っていたのか、長崎の女性の話と重なった。

 

若い世代はいま

 

 当時の西東京の爆撃の地図を見ている若い女性に「知ってましたか?」と聞いてみる。
「去年も来ました。子どもの施設で働いていて、日々仕事に追われっ放しなので、西東京に住む者として、せめて社会的繋がりを持ちたいんです」
 障がいを持つ子どもたち、国の福祉政策、障がい者団体からも抗議があった自民党杉田議員の「 LGBTは生産性がない」発言や、入所者が殺された「津久井やまゆり園」のことなどに話は及び、尽きなかった。帰りに握手して別れた。
 「来て良かったです」「また来ます」

 9日にはイベントがあり、芝久保ギタークラブによるミニコンサートが催された。美しいギターの音が奏でられ、平和の歌を皆で歌った。子どもたちにもわかるように被爆の痛ましさを地元グループで制作した「みちこのいのり」は紙芝居による訴えだった。もっと多くの人に、とりわけ若者に見てもらいたいイベントだった。

 

会場の飾り付けも手作り(西東京市提供)

 

 チラっと紙芝居を見ながら横の店でアイスクリームを食べている中学生らしき男子学生や折り紙をしている女子学生に聞いてみた。
 「今日は何の日か知ってるかな?」
 「非核・平和の日?」
 彼女は頭上の横断幕の文字を見ながら答えた。
 「8月6日は知ってる? これ読んでね」と資料を渡した。気にしてるように見えたのだから、もっと強引に会場の椅子に座って見てもらえばよかったかなと思いつつ。

 2020年度の教育改革や道徳の教科化や教科書から消される史実の数々が頭によぎった。高校では「現代社会」が消え、「公共」になる。この子たちの未来は、と考える。

 8月6日に行われた「広島平和式典」で、首相は「核兵器禁止条約」には触れず、被爆者の方から「何しに来たのですか」「誠意が全く感じられない」と言われた。唯一の被爆国で、いまだに多くの被爆者が苦しんでいるこの国の現状。

 

 話し足りない、伝え足りない

 

 大切なお話をしてくださったみなさんが共通して語ったのは「だから、戦争はいけない。あんな馬鹿なことは繰り返してはいけない」ということばだった。

 物言えぬ時代になった空気を感じる。でも、西東京にパンプキン爆弾が落ちて死んだ人がいる事実、20世紀の日本で多くの方が原爆で、戦争で亡くなった事実は消えない。語る人、聴く人、聞く耳を持つ人がいなければ歴史から消える。

 帰り際、まだ話し足りないと話し続けた人もいた。体験者が次々と亡くなっている今、時間はない。身近な地域でしっかり聴き、刻み、伝え、記していくこと、そして、一緒に考え、歩むこためにも、こういう場作りはもっと必要だと思う。

 今回の展示の場でも担う人が少なく、次への課題だった。多くの場でも同じ悩みがある。たくさんの市民が協力し、聴く人が多ければもっと広げられると感じた。忘れてはいけないこと、そのために今、何をしたらいいのか、住む地域から1歩でも切り拓き、良き未来へ繋いでいきたいと願う。
 2018「非核・平和展」を担った体験からの感想です。思い深く!
 (2018年8月15日)

 

【関連リンク】
・非核・平和宣言都市 西東京市(西東京市Web、PDF:2059KB
・市の平和推進の取り組み(西東京市Web

 

【筆者略歴】
 穂坂晴子(ほさか・はるこ)
 西東京在住18年。児童教材出版社勤務後、日本語・こども読み書き教室開室。「非核・平和を進める会」、「SAVEザ9条・SAVEザ憲法の会」、「戦争ホーキの会」会員

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