「西東京市カルタ」完成、足かけ4年 楽しみながら郷土を知る

投稿者: カテゴリー: 文化 オン 2020年4月3日

完成した「西東京市カルタ」を丸山市長に手渡す富沢このみさん(右)と製作委員会メンバーの徳丸由利子さん(左端)と中村晋也さん(左から2人目)

 カルタで遊んでいるうちに、地域の施設や風景の由来と伝承を知り、郷土の文化に親しみが湧いてくる-。そんな思いを込めた「西東京市カルタ」が4年がかりで完成し、製作委員会代表の富沢このみさんと委員会メンバーが4月3日、西東京市の丸山浩一市長に手渡した。今後は図書館、小学校、学童クラブなどに寄贈。在日外国人が集う多文化共生センターなどでも役立ててほしいと願っている。カルタ完成までの紆余曲折やみんなの思いをまとめた富沢さんの報告です。(編集部)

 

1.「猫に小判」から始まった

 

 な、なんと、足掛け4年もかかってしまった!
 「西東京のカルタを作ろう」というフェイスブック(以下FB)ページを立ち上げたのが平成29(2017)年10月31日。あれから足掛け4年経ち、ようやく市民による「西東京市カルタ」が完成した。FBのメンバー117人、読札投稿者31人、絵札作成者18人による合作だ。

 そのきっかけは、装丁家の大貫伸樹さんが趣味でやっている消しゴムハンコ教室をFBで宣伝するのに、「猫に小判」の絵札を使ったことだった。構図もよく、素敵な色あいで、「これでカルタを作ったら良いね」というような何気ない会話が交わされていた。

 

大貫伸樹さんの消しゴムはんこ「猫に小判」

 

 この絵札と何気ない会話に触発されたのが私で、早速FB上に「西東京のカルタを作ろう」というページを立ち上げ、参加を呼びかけた。

 

FBの「西東京のカルタを作ろう」のページ

 

 実は、私は、幾度か「西東京市のカルタ」を作りたいと試みたのだが、挫折していた。田無市では、平成元(1989)年3月25日に「田無市郷土かるた」が作られていたのだが、①西東京市になったのに改定されていないこと、②郷土を知るのが目的なので、半分くらいが歴史であるため、ややとっつきにくいことから、現在の人たちが自分の住むまちのことを知るカルタをつくりたいと思っていたのだ。

 西東京市は、新しい市であるため、「西東京市ってどこ?」と言われることが多い。東京の西というので、八王子市より奥の山の中と思われることもある。市民に、「新宿・池袋などの副都心から20分。便利だが、緑も多くて良いまちだよ」という認識を改にしてもらいたいとも思った。

 また、合併から10年以上経っているのに、相変わらず、保谷と田無という意識があり、市民の間もギクシャクしている。田無に住んでいる人は、保谷のことをほとんど知らない。おそらく、保谷の人もそうだろう。一体感を持つにあたっても、互いの地域を知ったり、興味を持ったりしてもらう必要がある。そんな折に、カルタは、話のきっかけになるのではないだろうか(注1)

(注1)以前、フロムジャパン代表の景谷峰雄さんがカルタで国際交流している「Karuta 2020」のお話を伺ったことがあり、これが頭にあった。

 

2.急遽「編集委員会」を設立

 

 FBのページを作って呼びかけたところ、驚くほど大勢の方々から読札がどんどん投稿され、嬉しい悲鳴をあげた。

 投稿して頂いた読札は、それぞれ面白く魅力的だったのだが、同じ題材(テーマ)に集中しがちなこと、しかも、カルタにするとなると「いろは47文字」(実際には、ゐとゑを抜いて45枚)に揃える必要があることから、これは、私一人では手に余ると、急遽、編集委員会(趣旨に賛同して下さった方を私の独断で依頼:小池早登美さん、大貫さん、徳丸由利子さん、中村晋也さん)を設けた。

 5人のメンバーで編集会議を繰り返し、田無と保谷のバランスを考えて、テーマを決め、投稿された読札を選別した。このため、せっかく投稿して頂いたのに、没になってしまったテーマもある。また、読札を「いろは」に合わせるため、言葉を変更したり、複数の読札を合わせこんだりした。そうしたやりとりは、FBのページ上で報告しながら進めたものの、せっかくの創作をずたずたにしてしまったことに、今も心が痛んでおり、投稿者の皆さんが、この点につきご寛容下さったことに感謝している。

 

旧ヤギサワベースでの第1回編集会議(写真:筆者)

 

3.紆余曲折した絵札の作成

 

 読札がほぼ固まったところで、絵札の作成に取り掛かることになった。当初は、大貫さんに全ての絵札の作成をお願いするつもりだった。しかし、大貫さんは、体調を崩されていること、締め切りを切られると仕事のようで嫌だとのことだった。そこで、急がずに、2年ほどかけて、月2~3枚、気が向いた時に作っていただこうということになった。

 そこに、消しゴムハンコで繊細な作品を作られている藤田律さんが、自分も参加し、大貫さんのタッチに合わせて作ってもよいと名乗りを上げて下さった。願ってもないことと、お願いすることにした。

 ところが、大貫さんは、芸術家肌の方なので、やはり、定期的に絵札を作るというのは、性に合わない、エネルギーのある絵札を作成できないと言われるようになった。お金の充てがない仕事なので、使う絵具は、最低限にしようということになっていたのだが、いざ作成するとなると、良いものを作りたい、するとどうしても多色になり、多色になれば、沢山の版を彫ることになる。構図を考えるにも大変なエネルギーを要する。体力的にも、自分がこれ以上製作するのは無理であると言うのだ。

 時を同じくして、藤田さんも、仕事が大変忙しくなり、構図を考える心の余裕がないと言われてしまった。

 これぞ、好意と興味のみで成り立つ「ボランティア活動」の限界だ!

 お金があれば、編集委員の中村さん(デザイナー兼駄菓子屋)にお願いすればよいことだが、中村さんは、駄菓子屋を続けるためにも、プロとしてデザインで稼がなければならない状況であり、無償でお願いする訳にはいかない。考えあぐねた末、編集会議で、読札と同じく、絵札も皆さんから募ってはどうかということになった。

 FBページでお願いしたところ、喜んで絵札を描いて下さる方、絵の上手な友達を紹介して下さる方などが現れた。また、絵の上手な方を人づてに探し出し、実情をお話してご協力頂けることになったケースもある。私も、皆が自信を持って絵札を作成してくれるよう、下手な絵札をいくつか作成した。

 

4.解説文作成に救いの神

 

 読札だけでは、そのテーマについて十分な説明ができない。「どんど焼き」を例にとると、どんど焼きの意味も説明したいし、読札では「保二小」を取り上げているので、他校でもやっていることに触れておく必要がある。このため、田無市郷土かるたを真似て、そのテーマについての解説文をしたためようということになった。この解説文についても、有志がいろいろな情報をFB上に挙げてくれた。

 編集委員の徳丸さんは、文章をまとめるのが上手で、当初は、有志が出してくれた情報をもとに、約200字に収める作業を積極的にやってくれていた。そこで、すっかり、お願いできるものと安心しきっていたのだが、ここでまた、徳丸さんが日本語教師養成学校に通うので、作業を手伝えないということになった。こりゃまた大変!しかたがないので、私が解説文を作成することにした。

 

解説文の表紙と一例 全ての読札につき解説

 

 カルタは、小学生が遊んだり、地域を知る授業に使ったりしてもらいたい。特別支援学校の生徒さんや在日外国人に、日本語を覚えるきっかけにして欲しい。……などと考えていたわけだが、そうなると、読み仮名をルビで振る必要がある。解説文作成もさることながら、読み仮名をつけるのは、非常に難しい。たとえば、西東京市創業の保谷納豆は、「ほうやなっとう」なのか、「ほやなっとう」なのか。正解は、後者なのだが、こうしたことをいちいち調べなければならない。なかでも、お寺などの縁起や文化財の名前は、読み方が難しい。

 悩んでいたところ、西東京市の歴史や文化財に大変詳しい方がボランティアで解説文のチェックをして下さることになった。内容的なチェックに加え、読み方についても丁寧に教えて下さり、これは本当に助かった。

 

5.ヴァーチャルな世界からリアルな世界へ

 

 FB上でのやりとりで読札、絵札、説明文を作ることが出来たのだが、最終的にカルタに仕上げる段になり、「紙に印刷することが必要!」→「それには、紙代金と印刷代金が必要!」であるということが現実味を帯びてきた。ヴァーチャルな世界からリアルな世界に移行するには、お金が必要だった。しかも、カルタは、1枚1枚が小さく、かつある程度の厚みが必要なため、普通の印刷より割高なのだ。

 FB上でカルタを作り始めた頃、社会福祉協議会が「歳末たすけあい・地域福祉募金」を活用し、「地域福祉活動に対する助成金」を出しており、いわゆる「福祉」だけでなく、「住民同士のつながりをつくるための事業」も対象になっていると聞いていた。30年度には、応募件数が少なかったそうなのだが、絵札に時間がかかるからと31年度に応募したところ、応募件数が非常に多かった。

 得られた助成金は、12万円。おそらく、応募のなかでは、相対的に多いほうであったと思われる。お金の充てが全くなかったのだから、大いに助かったものの、カルタ本体(100部印刷予定)の印刷代金に満たない。これに箱代金、できれば、白い箱ではなく、箱にも印刷をしたいし、解説文の紙代と印刷代もかかる、カルタで取り上げた場所の地図も欲しい……。

 絵札を描いて下さったなかで、「記念に」と購入してくれる方がおられるかもしれないとの編集委員の助言もあり、お声かけしたところ、数人の方が快く購入して下さった。お陰で、ようやく本体の印刷代と白箱代は、賄えることになった。

 読札や絵札を印刷データにする仕事や、箱に貼るラベル、地図の作成は、中村さんがボランティアで引き受けてくれた。解説文の印刷は、我が家にあるもので賄い、箱詰めや中綴じなどの作業は、編集委員が労力提供することになった。

 

箱詰め作業中(写真撮影:徳丸由利子さん)

 

 ところが、この箱詰め作業が予想を上回る大変さであった。100枚×45枚×2(絵札・読札)9000枚を「あいうえお」順に並べかえなければならない。ぼーっとしていると、二枚取ってしまったり、一枚抜かしたりしてしまう。箱も組み立てなければならない。箱詰めしないことには、カードがバラバラになってしまう!2時~9時まで、最後は、委員のお子さんの中学生、小学生の手もお借りして、なんとか、3月末までに仕上げることができた。

 

6.西東京市カルタの内容

 

 ここで、カルタの例を2つほど挙げて内容を説明しておこう。
 最初の「あ」は、「あんこの田無 包みの保谷 一緒になって二〇年」。

 これは、西東京市の地勢図を大福に例えると、あんこの部分が旧田無市、あんこを包む皮の部分が旧保谷市に見えることを指している。2001(平成13)年1月21日、両市が一緒になり、西東京市が誕生したが、両市の市民の間には、まだ一体感が充分生まれていない。前述のように、カルタを作った動機の一つがこれを解消したかったからだ。このため、解説文では、「そろそろ、美味しい大福になったかな」と希望が込められている。また、解説文では、この合併が、吸収合併とは異なり、新たに市を作る新設合併であったことにも触れている。

 「い」は、「命支えた 用水路 いまは暗渠の 遊歩道」。
 私たちが普段利用している遊歩道、「ふれあいのこみち」、「やすらぎのこみち」は、かつて田無の人々の命を支えた用水路であった。田無村は、17世紀初頭に青梅街道が開設され、人や馬が交替する継場として誕生したが、水利が悪く、飲み水は、毎日谷戸から運んでいたという。約100年後に、ようやく開削嘆願書の許可が下り、玉川上水から分水して「田無用水」が作られた。当時の人々にとって、どれほど嬉しい出来事だっただろう。しかし、昭和の高度成長期、人口増に下水道整備が追い付かず、生活排水が流れる悪水路と化してしまった。このため、蓋をして暗渠化されることになった。こうした何気ない日常から、昔の人たちの暮らし振りやその後の歴史に思いを馳せることもできる。

 

 

7.これからが本番

 

 実は、カルタは、これからが本番だ。市内の図書館(各2部)、小学校、学童クラブなど(各1部)に寄贈する予定だが、使ってもらわなければ、それこそ「猫に小判」だ。せっかく、大勢の市民の方々が力を合わせてここまで漕ぎ着けたのだから、活用してもらってこそ、生きてくる。

 

セット完成!(写真撮影:筆者)

 

 印刷の質は落ちるが、絵札(A7)をコピー用紙(A4)サイズに拡大し、走り回りながら絵札を取り合うようにしたら楽しいのではないかと考えている。
(富沢このみ)

 

 

富沢このみさん

【筆者略歴】
 富沢このみ(とみさわ・このみ)
 1947年、東京都北多摩郡田無町に生まれる。本名は「木實」。大手銀行で産業調査を手掛ける。その後、北海道で大学教授などに就くも、2006年母の介護で東京に戻り、法政大学地域研究センター客員教授。2012年より田無スマイル大学実行委員会代表。2017年より西東京市カルタ製作委員会代表。

 

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