「書物でめぐる武蔵野」第1回 田無のザンネン

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2020年10月22日

竹内正浩著『地図と愉しむ東京歴史散歩』(中公新書)

杉山尚次(編集者)

 いきなり私事で恐縮だが、筆者はひばりが丘に60年ほど住んでいる。100年前だったら間違いなく古老である。だからこのような原稿は、いってみれば〝古老の語り〟だということに気づき、愕然とした。しかし21世紀版のそれとしてやってみたいと思う。書物を〝散歩〟しながら、「ひばり」やその周辺の武蔵野散歩を楽しんでみたい。

 

 1回目は鉄道ネタ。これは西武池袋線沿線住民「あるある」に属すると思うが、とにかく「タテ=南北」の移動が不便である。秋津には武蔵野線が走り、練馬には大江戸線が通っているとはいえ(これとて1991年開通、「やっと」という想いが強い)、ひばりヶ丘あたりから中央線に抜ける路線があったら、と思ったことがある人は少なくないはずだ。

 

 この想いは、あながち妄想とはいえないようである。
 『地図と愉しむ東京歴史散歩 (中公新書)』(竹内正浩、2011年、中公新書)は、東京の古地図に秘められた歴史的な謎を読み解く本で、生活圏を対象とする身近な地図が多いのが特徴で興味深い。(この書名は中公新書でシリーズ化され、同著者による「都心の謎篇」(2012年)、「地形篇」(2013年)も出ている)。

 

 ここに注目すべき計画が1章を割いて説明されている。戦前、山手線の外側を走る民間の環状線「東京山手急行」という計画(現在の大江戸線のルートに近い)があった。株式を募集するなどリアリティをもって進められていたものの、用地買収の困難などがあり幻に終わったという。これもタテ移動の利便を図った構想だったといえるだろう。

 

東京山手急行電車の株式募集パンフレットに付された路線図(竹内正浩著『地図と愉しむ東京歴史散歩』2011年、中公新書、p94より)

 

 とはいっても、現在の西武池袋線でいうと東長崎、西武新宿線では新井薬師と交わるもので、武蔵野の住人としては少々遠い。しかし、幻の新線計画は、山手急行だけではなかったのである。

 《昭和二十年代、井の頭線は吉祥寺から田無を経て東久留米まで延伸する計画があった。井の頭線終点の吉祥寺駅が高架上に設置されているのは、中央線を乗り越し、延伸を意識していたためともいう。しかし田無以北は西武鉄道の〝ナワバリ〟である。案の定、保谷から東伏見を経て吉祥寺に乗り入れようとする西武鉄道側と激しい免許争奪戦となり、結局喧嘩両成敗のように両者の路線計画は頓挫した。》(p101)

 

 吉祥寺-田無-東久留米 vs 吉祥寺-東伏見-保谷ということだが、どちらも幻。ああ、なんてことを……。

 

 「たられば」を言えば、ここで井の頭線が延長していれば、田無や東久留米から渋谷までダイレクトに行ける。中央線、京王線にも乗り換えやすい。東京を縦断する路線がいちはやくできていたわけで、東京の街の発展は違ったものになっていただろう。少なくとも、田無の様相はかなり違っていたと思う。

 

部屋の地図。原本見当たらないため、お赦しあれ。変色したテープあたりに「田無町」の文字。ピンク色は真上がひばりヶ丘駅、左は東久留米駅、右は保谷駅の推定位置(クリックで拡大)

 

 ところで、筆者の部屋には明治13年(1880年)測量の地図「(東京)近郊西部」が貼ってある。地図のちょうど真ん中あたり、一番大きな街として「田無」が目に入る。「吉祥寺」「石神井」「小金井」は村だし、「三鷹」は名前さえ見当たらない。つまり、鉄道がない時代、青梅街道の宿場「田無」は、周囲で一番栄えた場所だったことがわかる。だが田無は鉄道の招致に積極的ではなかったようだ。甲武鉄道(現在の中央線)は、明治22年(1889年)に新宿-立川間が開業する。そのルートは田無よりずっと南を通るものとなった。結果、田無はかつての中心地という地位を失ってしまったようなのだ。これが田無のザンネン・その1とすると、先の井の頭線の件は、田無のザンネン・その2ではないか、と思うのだが、どうだろう。

 

 さて、吉祥寺から田無を経由して東久留米へ、というのはどういう経路の計画だったのだろう。その仮説については次回に。

 

杉山尚次
(Visited 1,658 times, 1 visits today)

「書物でめぐる武蔵野」第1回 田無のザンネン」への4件のフィードバック

  1. 1

    喧嘩両成敗だったんですね。残念。
    西武鉄道にはその分頑張ってほしいですね、

    • 2

      コメント、有難うございます。引用した本には「喧嘩両成敗」以上の記述はないのですが、類書を見ると、東京の鉄道が整備される際、新設路線をめぐって私鉄各社の「綱引き」があったことがわかりました。そのことは次回で少し触れられたらと思っております。宣伝みたいになって恐縮です。

  2. 3

    興味深いですね。武蔵野鉄道の東久留米駅からの引き込み線について『東久留米の戦争遺跡』市教育委員会刊に書かせていただきました。あの廃線を活用できなかったザンネンには賛同します。次回が楽しみです。

    • 4

      コメント、有難うございます。専門の方にコメントをいただき、光栄であると同時に身が引き締まる思いです。おっしゃるとおり、次回は「引き込み線」に触れたいと思います。ご期待に沿えるよう努力いたします。

山崎丈 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA