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あいさつするイ・ハンネさん

韓国人元BC級戦犯者の救済と名誉回復を 李鶴来(イ・ハンネ)さんが遺したのは

投稿者: カテゴリー: 交流・共生 オン 2021年4月11日

 韓国人元BC級戦犯者として刑死した仲間の無念を晴らしたいと活動してきた西東京市在住の李鶴来(イ・ハンネ)さんが3月28日、96歳で亡くなった。「同進会」を結成し、戦中と戦後、国家と民族の狭間から、長年求めてきたのは何だったのか。「『同進会』を応援する西東京市民の会」のメンバー、金貴子さんの寄稿です。(編集部)(写真は、2020年2月、芝久保公民館で語る李さん。谷口捷生さん提供)

 

 

 桜吹雪が舞う中、家族と友人に見送られ、静かに旅立たれたイ・ハンネさんのお顔はとても安らかで、生涯をかけて戦い続けて、無念の死をとげられた方だという事が信じられないほどだった。

 

 韓国人元BC級戦犯者の最後の生存者だったイ・ハンネさんは、先月25日西東京市のご自宅で転倒され、病院に搬送されたが、28日にそのまま還らぬ人となった。96歳になった1週間後、4月1日に予定されていた国会での「外国人元BC級戦犯者問題解決のための早期立法をねがう集い」の4日前だった。

 

手紙を読むイハンネさん

「同進会」を応援する西東京市民の会のメンバーが送った手紙を読むイ・ハンネさん(昨年10月、西東京市の自宅。金さん提供)

 

朝鮮半島から東京巣鴨まで

 

 人生のほとんどを東京で過ごされたイ・ハンネさんだが、生まれたのは植民地支配下の朝鮮半島の全羅南道だった。17歳の時、村の有力者の強い勧めで日本軍が徴用した捕虜監視員に応募させられた。軍属(軍に雇われた民間人)であったにも関わらず、釜山で2カ月の厳しい軍事訓練を受けさせられた。上官の命令は絶対とする日本軍の教えを、暴力をもって徹底的に訓練・教育された。

 

 その後タイの捕虜収容所に派遣され、泰緬鉄道建設の現場で働かされていたオーストラリア人などの捕虜の監視業務にあたった。十分な食料も医薬品もなく、多くの捕虜が病気になり、また死亡した過酷な現場だった。イ・ハンネさんは2年の契約が過ぎても帰国できないまま、そこで終戦を迎える。

 

 祖国解放を喜び、祖国に帰れると心躍らせたのもつかの間、連合軍の戦後裁判の法廷に立たされることとなった。植民地出身の軍属として何の権限もなかったイ・ハンネさんは、1947年、日本軍の捕虜政策に起因する「捕虜虐待の罪」で死刑判決を言い渡された。シンガポールのチャンギー刑務所で8カ月間死刑囚として過ごした後、減刑となり、東京の巣鴨プリズンに移され、56年まで刑に服した。

 

誰のために、何のために

 

 1952年、サンフランシスコ講和条約発効と共に日本は独立を手にし、韓国・朝鮮人は日本国籍を一方的に失った。「日本人」として日本の戦争責任を負わされたBC級戦犯者達は、「刑が執行された時は日本人だった」として日本政府により拘禁が継続され、「日本人ではない」として日本政府による援護や補償の対象から除外された。

 

記者会見に臨むイハンネさん

昨年10月に行われた戦後処理問題の解決を求める合同記者会見にて。パク・ネホンさん(左) 内海愛子さん(右)と共に(金さん提供)

 

 出所時に支給されたわずかな交通費と軍服一着と米の配給券だけを手に、身寄りのない元BC級戦犯者の日本での生活は困難を極め、2名の自殺者も出た。また精神を病み精神病院で一生を終えた者もいる。祖国へ帰ることは、金銭的に不可能なだけでなく、祖国にいる遺族・家族は「対日協力者」の遺族・家族として耐え難い差別にさらされてることを耳にし、断念せざるをえなかった。

 

 BC級戦犯となった韓国人は148名、うち23名が死刑となった。BC級戦犯者の多くが捕虜監視員だった。イ・ハンネさんは、「誰のために、何のために死ぬのか」と苦悩の中で死んでいった仲間の名前をいつも胸ポケットに入れていた。

 

日本人の道義心と良識への訴え

 

 韓国人BC級戦犯者は1955年に「同進会」を結成し、日本政府に謝罪と補償を求め運動を続けてきた。日本政府は、日韓請求協定で「すべて解決した」という立場を貫いているが、2005年に韓国政府が公開した日韓会談議事録には、日本政府が韓国人戦犯者問題を「別途研究したい」とし、請求権の対象になっていなかった事が明らかになっている。

 

 1991年に日本政府に対し「条理に基づく謝罪と補償」を求めて提訴した。1999年に最高裁判所は補償請求を棄却したものの、BC級戦犯者が「深刻かつ甚大な犠牲ないし損害を被った」として被害事実認め、補償を可能にする立法措置を立法府にゆだねた。

 

 その後も立法運動は続けられ、歴代の内閣総理へ提出した要請書は、昨年10月に菅総理に出したものが31通目となった。最後の一人となっても諦めることなく、「仲間の無念を晴らしたい」と日本人の道義心と良心へ訴えてきたイ・ハンネさん。その無念は晴らされることのないまま、この世を去ることとなった。

 

4月1日の「偲ぶ会」

 

遺影を前にあいさつする内海愛子さん

早期立法を願って開かれた4月1日の集会「イ・ハンネさんを偲び遺志を継ぐ会」であいさつする「同進会」を応援する会代表の内海愛子さん(衆議院議員会館で。増田弘邦さん提供)

 

 同進会結成66年でもあった4月1日、早期立法を願う国会での集会は、惜しくも「イ・ハンネさんを偲び遺志を継ぐ会」となった。集会は200名以上(リモート参加を含む)の参加となり、遺族のみとなった同進会、応援する会、与野党の国会議員が駆け付け哀悼の意を表した。生存中に立法措置がなされなかったことへの謝罪と、日本の不条理に対しての運動を継続していくことへ決意が口々に述べられた。

 

 元BC級戦犯者の息子で、同進会副会長のパク・ネホン(朴來洪)さんは「おじさんは宿題を残していった。日本のみなさんの今まで以上のご支援とご協力をおねがいします」と受け継がれたイ・ハンネさんの想いを語った。

 

イ・ハンネさんが遺していったもの

 

 筆者がイ・ハンネさんと出会ったのは、昨年2月に芝久保公民館で行われたパネル展示・講演会だ。韓国人元BC級戦犯者の方々が目の当たりにした不条理を知って衝撃を受けた。同時に、長年この問題に携わってこられた「同進会」を応援する会や弁護団などの、日本の方々に囲まれたイ・ハンネさんの姿をみて、諦めていた何かが動き始めた。
 
 以来、講演会の主催者だった「同進会」を応援する西東京市民の会で活動を共にさせていただき、イ・ハンネさんのご自宅で直接お話を聞く機会にも恵まれ、貴重な時間を過ごさせてもらった。1年2カ月という短い時間ではあったが、イ・ハンネさんの最後の1年が、筆者の最初の1年になったように感じている。

 

 子世代の朴さんがイ・ハンネさんから受け取ったバトンは「宿題」となり、孫世代の筆者にとっては「贈り物」となった。後世を生きる私たちが、不条理に無念の涙を流すことのないよう、日韓の狭間で、戦争と真の戦後の狭間で、命をかけて繋げてきたバトンである。

 

 「落伍者をださず、同じく進んでいこう」と結成された「同進会」が日本政府に求めて続けてきたのは単なる「過去の清算」ではない。それは、日本人であれ、在日外国人であれ、日本に住む私たちが、一人として残される事なく、人間として尊重され、共に生きていける社会ではないだろうか。

 

 「日本の民族が好きです。でも加害の過去に目を向けなければ…」。静かに訴えつづけたイ・ハンネさんの声が、今日あなたにも届くことを祈りながら。

 

【筆者略歴】
金貴子(キム・キヂャ)
 滋賀県出身の在日3世。20代の大半をアメリカで過ごし、そこで出会った韓国人と結婚して韓国へ。ソウルで12年過ごした後、約20年ぶりに日本で住むことに。現在武蔵野市で英語講師などをしながら、息子2人の子育て中。「同進会」を応援する西東京市民の会のメンバー。

 

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