挿絵

「紫草・エコ・キヤンプ・残日録」第7回 エコキヤンプへのいざない

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年12月16日

 ~紫草✕エコ ⇒江戸期の自然農法・エコロジーとエコノミーの共存~

 冒頭の絵は19世紀の農学者大蔵永常の著書『広益国産考』三の巻における紫草栽培の挿絵を切り取ったものである。春に紫草の種を播き、夏に肥料を与え、秋に種と紫根を収穫することが伝わってくる。左側の「秋」の絵を見ると、掘りあげた紫草のさばき具合がよくわかる。この挿絵の3つの書き入れを翻刻すると、①「折りわけたるじくむしろに入れて種を叩き落とす図」(上段左の棒を持つ男)、②「根を筵に入れて干す図」(中段の縞模様の上着の男)、③「紫草の根と茎とを折りわけている図」(下段の夫婦)となる。これらの挿絵によって、往時の農民の分業による共同作業の手順を知ることができる。しかし、作業の流れと絵の配置が一致しないのがやや気にかかる。

 

 上掲の挿絵は、①は「紫草の種の収穫」、②は「紫根の乾燥」、③は「紫根と茎の仕分け」の3つの労働シーンをあらわしている。このうち、③の工程で仕分けした紫根をまるかごの中に納め、②の工程で筵の上に広げているモノが紫根なのであろう。作業手順の流れを考えると、②の挿絵がファイナルであるはずだ。丸笠をかぶった縞模様の上着の男性農民は、収穫した紫根を筵の上に広げて紫根の出来具合を点検しているとおもわれる。「根を筵に入れて干す図」という書き入れは「根を筵(の上)に広げる図」の意味になる。農民が点検しているのは、実は、紫根の品質と商品価値なのではないかと推測できる。色素シコニン含有量が多ければ発色もよく品質が高い。1株の紫根が3株ぶんに匹敵する場合もあるから、農民は土壌改良や施肥の時期などに知恵を絞り、「極上出来ごくじょうでき」(畑1反/300坪/990㎡で50貫目)を目標に紫根栽培を行った。低くても「中出来ちゅうでき」(反当たり40貫目)の収穫に専念した。往時の価格相場でいえば「金一両につき五貫上位なり」だったから、1反当たり50貫目(187.5㎏)の紫根は50両だった。江戸後期(天保13年)の貨幣価値を仮に1両≒37,500円とすれば、現代価格で1,875,000円の年収入となる。この金額は300坪の紫草畑の年間収入であるが、これを平均的な小作農の「総収入」と見做すのは難しい。農民が約9ヶ月を費やして得た紫草栽培の出来高収入と判断するのは早計すぎる。そもそも武州に紫草栽培の専業農民は存在したのか、否か。どうであろうか。

 土地持ちの小前百姓でも5~10反ぐらいの自前耕作地を持っていたが、そのうちの何%を紫草畑として耕作したかは、往時の農事統計データがないのでわからない。紫草生産は元々換金作物だったが、武州地域ではこの他にも茶・小麦・大根・荏胡麻・栗・芥子・大豆・蕎麦…などの米以外の換金作物が主流だった。こうした背景のもと、紫草を自作し提供する農民のインセンティブは高値取引だったのに違いない。参考までに、今季(2021年)のエコキヤンプの紫根収穫量はわずか1.5㎏程度にすぎない。どのみち我々は江戸時代の紫草生産農民の足元にも及ばない。

 

エコキヤンプの紫根、2021年収穫

 

 江戸時代中期、将軍吉宗による換金農作物の生産が奨励され、やがて紫根市場も形成され、江戸後期には「紫草商人」たちの実利的な商売感覚と、粋を好む町人の「江戸紫」への消費性向とが相俟あいまって、紫根染の最盛期を迎えたのである。まさしくエコロジーとエコノミーの共存の典型であろう。いいかえれば、自然農法の生態系と消費経済の需給の一致を意味している。武士も農民も町人も、何事も貨幣経済という大きな括りの中にあった。紫草を生産する農民もこうした農村経済の只中にあって、商業資本の影響から免れることはできなかった。

 その一方で、江戸後期に入ると実利に目聡めざとい農民の中からには「農間商人のうかんしょうにん」が登場したのである。江戸時代の文政期の古文書史料『村明細帳等に見る農間余業』(小平市中央図書館所藏)によれば、小川村や大沼新田などに「農間商人」が現われはじめ、とりわけ鈴木新田(いずれも現小平市)では農業と商業の結びつきが顕著になり、商人および職人が居住者の28%を占めたという。鈴木新田の古文書史料はその商売の内容を伝えている。「…あったッ!」。ほとんど現代と変わらない業種業態の中に「紫根売買」を見つけたのである。が、このデータでは農民の紫草生産の実態はまたまた分からない。農民兼商人が「紫根を生産し、自ら紫根を売り捌いた」可能性もある。しかしながら、冒頭に掲げた3つの挿絵では「農間商人」の存在を微塵も感じさせないのである。

 農民の衣服に注目してほしい。どの季節も質素で「エコな」野良着姿で働いている。紫草を栽培し紫根を収穫しても、農民が紫根染の衣服を着ることは生涯なかったにちがいない。木綿の衣服を着て大地とともに生きている。母親は赤子を背負ったまま、夫とともに紫草の根と茎を折り分ける姿は幸せ(仕合せ)そうである。だが、身分制社会の縛りによって農民の衣服の贅沢は許されていなかった。遠く溯れば、こうした農民のお蔭で紫草は守られ、幕末期まで連綿と引き継がれてきた。約150年前まで武州(現西東京市では未確認)でも盛んに栽培されていた。おお紫草はなんと健気で強い植物であることか。江戸時代の農民が播いた紫草の子孫が幾世代も生きつづけ、明治時代の化学染料登場後も紫草を愛する「誰か」の手によって守られ、紆余曲折の末に今日の西東京市のエコキヤンプがある。そして、種播きから始めた当会は通算5年目、ようやく紫根染の実現に辿りついたのである。

 

 ~エコ✕キヤンプ ⇒エコテク・エコタッチの融合へ~

 エコは外来語の短縮形であるが、言語(原語)のクレオール化(≒土俗化)によって、原意を喪失したり、変質したりする典型ともいえる。元々ギリシャ語の「オイコス」(家政・政治の意)から派生した「エコ」の独り歩き現象は戒めるべきだろう。「エコ=環境にやさしい」という表現もまた安直に使わないほうがいい。「エコをコンセプトに開発した商品」を謳い文句にした風潮も歓迎しがたい。似たような生活雑貨が溢れている状況のもとで個性的なライフスタイルを送るのは難しい。国連が提唱するSDGs(Sustainable Development Goals)の17のゴールの実現は果てしなき理想に近い。

 SDGsの1つのゴールは他のゴールと関連し、17ゴール全体が人類の欲望と差別の悪魔的な負の連鎖が根底に横たわっている。2033年までに実現をめざす「持続可能な開発目標」のSDGs。貧困、不平等、格差、気候変動影響…とまさしく人類が直面する課題解決(≒利害調整)への道であることに異論はない。問題はどの指標も改善どころか悪化の一途を辿っているように見えることである。まさに現実の世界は「理想」から全くかけ離れた状況で動いている。大国の政治エゴが常に衝突する舞台はいつも国連の議場であり、個別の国際分科会で明文化された実際行動はといえば、各国ともお定まりの先送り政治声明だけに熱心であるのが実情である。

 

COP26

 

 これまでのCOP(Conference of the Parties :国連気候変動枠組条約締約国会議)は理念こそ立派であるものの、その実行性においてはまさしく「エコがエゴ」となる大国間の利害剝き出しの空転の連続だった。会議最終日の共同声明は政治的妥協の産物だった。会議は踊らず、開催国だけが異様に張り切り、参加国は自国のエゴ丸出しのセレモニーを演じた。…と、ここまでは誰でも批判できる。しかしながら我々の拠点であるエコキヤンプは、SDGsとCOPの動向は関心事だった。その中で最も身近な関心事は毎年の酷暑であり、特に気候変動による異常な高温である。これは個人や市民団体では解決不能な「不自然な自然現象」なのである。異常高温はGW期間からはじまり、7・8月の真夏日の到来に紫草も栽培する我々をも苦しめているからだ。酷暑による高温が原因で、紫草の根の成長に甚大な支障をきたしているとおもえる。「命を落とす危険のある暑さ」と気象庁が警告を発するほどだから個人ではどうにもならない。このまま異常高温が常態化すれば、我々も北極圏の白熊の運命のごとく絶滅の危機に瀕するのだろうか。否っ! 人も白熊も生き続けねばならぬ。共に生きるための環境づくりはCO2削減が必至である。

 大量生産・大量消費の使い捨て文化の時代は完全に終わった。これは誰もが認めることだ。右肩上がりの生活向上を望む声よりも安全で健康な生活を希望し、社会の不平等の是正を求める国民の声は切実である。かといって国民一人ひとりが自分の満足度を基準にして生きようとすれば千差万別が億差人別となり、平均的な生活像は幻と化す。国民や大衆や庶民という言葉が飛び交う時代は全体主義による政治が横行しがちだった。個人の価値観は自由であるべきだが、その価値観が多様化すればするほど細分化し、社会的紐帯ちゅうたいや共同規範は薄れ、自分事と他人事の共通項が消え、「エコはエゴ」となる。国家全体主義は統制からはじまる。人権抑圧も価値観統制も全体主義の温床であるのは明白だが、同時に「コトをなすのが手っ取り早い」のも一党独裁主義なのも確かだ。それは強権的な抑圧と自由剥奪、の統制の檻があるばかり。

 生物多様性の維持と環境循環が関心事となってからすでに時久しい。エコキヤンプでは都市と自然の環境共生を掲げている。我々のキヤンプは、西東京市の資源ゴミの回収分別し次の集積地へ中継する作業フィールドの一郭にある。紫草栽培をするために年中訪れるたびに気づくことがある。それはこの2、3年の廃棄家電品のおびただしい増加である。COVID-19の大感染によって巣籠りを余儀なくされた人びとが断捨離を行い、住空間の見直した結果であろうか。その大半は生活必需品の家電がコンテナに山と積まれていくのである。家電に付属する電気ケーブルの取り外しなどは人の手で行っている。次に目立つのは廃食油であるが、これも6人位で人の手作業でプラスチックボトルや瓶から貯蔵カートプールに溜め置かれ、すぐさま専門の回収車が運んでいく。このような作業に携わる人びとの5m離れた場所で紫草を栽培している。

 

播種

 

 大雑把に言えばエコキヤンプは、工業系廃棄物や紙廃棄物のリサイクル*****と自然系の紫草・野草のライフサイクル*******が同居する小さな都市と自然の共生空間である。この2つのサイクルを、心を満たすエコテク・エコタッチの融合した「生活廃棄物品と紫草循環再生」の実験劇場ではないだろうか。うーむ、ちょっと大袈裟か。工業系の廃棄物資源リサイクルは、人手もエネルギーもコストもかかり、CO2の発生はゼロにはならない。この結果、カーボンゼロの考え方が現実的になる。

 このような廃棄物資源リサイクルに対して、紫草栽培は太陽エネルギーと人力だけに頼っており、水は雨水を利用している。だから廃棄物は基本的にゼロ。CO2は紫草と周辺の草叢の植物が吸収してくれる。栽培スタイルは江戸時代とほとんど同じである。生物多様性を維持しならCO2を発生しない生態系とライフスタイルは理想的な「エコ」ではないだろうか。

 

 ~キヤンプ✕残日録 ⇒CO2残リテ足ルルニ未ダ遠シ~

 最近のTVニュースで知ったこと。大気圏に排出されるCO2のうち、航空機の占める割合は約8%だという。地球の大気汚染の主な原因はCO2排出によるもので、上空を飛び交うジェット機の轟音を耳にするたびに、北極圏で「生き場」を失いつつある白熊の姿を連想する。これとは逆に、熱帯雨林の伐採によるCO2吸収の機会喪失のニュースと接すると、太平洋の真ん中にある島嶼国キリバスの大統領のことを連想する。CO2の排出によって北極圏の氷山が融けると海面が上昇し、海洋島嶼国キリバスの国土は水没危機に晒されている。膝まで海水に浸かりながらCO2削減を訴えるTV画面に映る大統領の姿に戦慄を覚えた。

 2020年統計のCO2排出国は、中国、アメリカ、インド、ロシア、日本…の順番である。南米アマゾンの熱帯雨林の伐採だけが地球温暖化の主要原因ではない。わが国は第5位。第1位の中国は日本の10倍のCO2排出国で、年間100億トンを排出し、この勢いは止まりそうもない。世界中の石炭・石油・ガス・発電所・熱供給プラント・エネルギー産業・製造業・建設業・輸送・道路車両そして家庭のすべてがCO2排出の「真犯人」なのだから、『脱炭素社会』(Decarbonized Society)の構築は世界人類の共通課題なのである。

多様なライフスタイル

 

 地球上に棲息する生き物は人類だけではない。動植物の命運は人間の思想と行動にかかっている。現在、製造業を軸に進行中のカーボンニュートラル(Carbon Neutrality)は「炭素中立」を意味する。この考え方は地球の、世界の環境課題の最も現実的な指標とならなければならないだろう。これは簡略すれば、「CO2の排出と吸収の差し引きゼロ」の仮設相殺論なのであり、経済(≒膨張する欲望)と環境(≒心を満たす環境技術)のバランスシートなのである。CO2吸収量がCO2排出量を凌駕すれば、国際社会全体の「豊かさ」も目減りしない******という考え方に基づく。この考え方が世界各国の政策になれば、古くは南北問題も貧困問題も成長格差問題も軋轢なしに解決するのであろうか。すべては仮説理論なので、これは脱炭素社会をめざす現実的なアプローチの一つであることは間違いない。この差し引きゼロの安定理論は、わが国の植林思想と酷似している。わがエコキヤンプもまた脱炭素社会の小さな村でありたいと願う。
〈了〉

* 連載第8回は「遥かなる万葉、紫根染の世界へ遡る」と題してお送りします。

 

蝋山哲夫
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