立場の弱い人に温かな眼差し 東久留米市の元市議桜木善生さんを偲ぶ

投稿者: カテゴリー: 暮らし オン 2022年8月18日

 東久留米市の市議会議員を9期務め市長選にも出馬した桜木善生さんが7月に亡くなり、8月上旬に通夜・告別式が行われました。40年余り交友のあった西東京市在住の鈴木信幸さんから、議員時代の活躍、荒波に揉まれた若いころも含めて、桜木さん追悼の言葉を寄せていただきました。(編集部)

 

 東久留米市の元市議会議員、稲葉三千男市長時代の与党の重鎮、社会福祉の専門家として知られている桜木(本名櫻木)善生さんが7月19日に亡くなった。享年72歳だった。群馬県沼田市の山中に1人で渓流釣りに行き転落死したのである。

 

 前日の会話が最後の別れに

 彼が亡くなって1週間後の26日午前、私は知人から彼が亡くなったらしいと知らされ、すぐに彼の家族や友人・知人に真相を知ろうと電話をかけまくった。

 彼が釣りに行く前日の7月18日、私は彼と会っていた。立ち話で彼は「シンコウ(信幸)さん、俺の後継者は知っていると思うけど、来年の市議選はまた彼の応援を頼むよ」と話した。

 その後、共通の趣味である渓流釣りに移り、翌日群馬の山中に行くというので、私は「年を取ったら渓流には1人で行っちゃだめだぜ」と警告した。これが彼との最後の会話になってしまうとは思いもよらなかった。もっと強く警告して引き留めるべきだったかもしれない。しかし彼は普段から「何十年も1人で行っているから大丈夫だ」と言うのが常だったので、思いとどまらせられなかったと思う。

 帰宅しないので心配した家族が警察に捜索願を出し、所轄の沼田警察署から死亡確認の連絡があったのが20日午後6時。事件性はなく、転落死ということだった。

 

桜木さん

ヤマメを釣り上げて笑顔の桜木さん(写真は遺族提供)

 

 同年生まれ、40年余りの付き合いに

 突然の死は、彼を知る多くの人たちはいまだに信じらず受け入れがたいようで、私も道を歩いていたら突然目の前に巨大な陥没穴が出現したような思いにとらわれている。

 私と桜木さんとの出会いは、彼が初めて東久留米市議選に立った年の2年前の1981年と記憶している。当時、私は(東久留米市の)滝山団地に住んでいて社会党の人たちから彼を紹介された。最初の出会いは名刺交換した程度で会話もほとんどなかった。距離が縮まったのは、彼が石山右助市議(当時)の後継者として社会党公認で市議選に立候補することが決まってからだった。

 

桜木善生さん

市議選に初出馬した1983年当時の桜木さん。33歳で初当選した(写真は遺族提供)

 

 生まれ年が同じ1950(昭和25)年ということもあってか、以来、お互いに遠慮なくずけずけものを言い合う関係が続いてきた。私は3月生まれで彼が4月生まれ。ひと月違いで私が学年では一級上ということに敬意を表していたのか、二人で話すとき、彼は私をさん付けで呼び、私はため口を使った。

 

 焼香の列が場外にまで

 彼が亡くなってもうすぐ1カ月になる。彼との40年以上の付き合いを振り返ってみて不思議なことに気が付いた。私は人と知り合いになるとまず、その人の出身地を訊くのがほとんどくせになっている。だが、彼の出身地を聞いたことがなかったのだ。生い立ちについても聞いたことがない。

 私と彼の付き合いは、政治活動がらみがほとんどだったので、彼の生い立ちや人となりについてはあまりよく知らない。誰とでも付き合えて面倒見がいい、思いやりがあって細かいことまで気を配る、行動に移るのが速い、というのが彼を取り巻く多くの人たち共通の桜木評だ。この評価がまちがいないことは、通夜(8月2日)と告別式(3日)の参列者が合わせて577人にも上ったことでも証明されている。

 

会葬礼状

通夜・葬儀で渡された会葬礼状(筆者提供)

 

 私は通夜に出席したが、社民党党首の福島瑞穂参議院議員、富田竜馬東久留米市長をはじめ政党、市議会、市役所、障害者団体などの関係者、一般市民が式場に詰めかけ、焼香の順番を待つ人の列は式場の外にまであふれていた。参列者の間からは「さすが桜木さんだ。人付き合いはよかったし、みんなから慕われていたからなあ」という声が漏れ聞こえてきた。

 

 幼少期に試練の荒波

 私は彼の死を機に、桜木善生という一人の人間を知りたくなった。家族や友人・知人たちから聞き取りを始めると、私の知らない桜木善生が次々に立ち現れて私は驚愕した。

 彼は生まれて2歳の誕生日を迎えないまま実父母の元を離れて桜木家に養子に入り。5歳にして養父と死別し、養母の叔母に預けられている。養母と東久留米市で再び生活を始めるのは小学校入学直前からで、以来、市立小・中学校を卒業。都立北多摩高校に進むも養母が病気にかかり、経済的に厳しかったのか2年生の時に都立井草高校定時制に編入・卒業。最終学歴は立正大学Ⅱ部文学部社会学科である。定時制、大学時代は、昼間は働いて自分の学費を稼いでいた。長男の有太さんは「父は幼いころから人生の荒波にもみにもまれているので、誰にでも分け隔てなく接し、弱い立場の人たちや家族に愛情を注いできたのだと思います」と話す。

 妻・ユミさんとは大学生の時に知り合った。同じ文学部の学生で、桜木さんは社会のために役に立つ仕事に就きたいとの希望を持っていたという。ユミさんによれば「新聞記者になりたかったようで、全国紙を受けて筆記試験に通り面接まで進んだんです。面接で『地方に行けるか』と問われ、『母を置いては行けない』と答えたので採用にならなかったと本人は言っていました」。大学卒業後、身体障害者救護施設「東京久留米園」に就職したのも、社会の問題に直に接したいという彼の問題意識があったからだと、ユミさんは思っている。彼はここで労働組合活動と出会い、組合書記長、委員長を歴任している。

 

 9期連続で高位当選

 組合活動を通して社会党との関係も生まれ、1980年、30歳で社会党に入党、83年、33歳で東久留米市議選に立候補し、見事2位当選で初陣を飾った。以来、市議選では社会党(5期目から社会民主党)公認で連続9回当選。この間、議員定数は26から24、22と削減されたが、10位以下で当選することはなかった。2期目と4、5期目はトップ当選。3期目は社会党の新人候補を当選させるため支持票の分け合いをしたこともあって5位当選にとどまったが、このことがなければトップ当選だったのは間違いない。当時、彼は問わず語りに私に「今回は新人が出るので応援の人手はみんな持っていかれっちまうなあ」とぼやきとも受け取れる物言いをしたのを覚えている。彼にとってトップ当選を逃したことは不本意であり、この上ない痛恨事であった。

 しかし、桜木さんの選挙での強さは尋常ではない。仕事のできる議員は選挙に弱いと言われるが、桜木さんには当てはまらない。面倒見がよく頼まれごとにはいつどこでもすぐに対応するフットワークの良さが、桜木ファンを増やし底堅い支持基盤を形成しているのではないだろうか。

 「選挙に強い桜木」を育てたもう一つの要因は、彼の後援会にあると私は思っている。議員後援会と言えば、実際は議員や議員事務所が会合やイベントの連絡や運営をしているケースが一般的である。桜木後援会の場合は、役員を中心に会報の定期発行・配布、会合やイベントの連絡や運営を独自に行っている。後援会主催のバス旅行に私は参加したことはないが、新年会や忘年会は出席したことがあり、運営主体は後援会だった。海産物やそうめん(素麵)などの物品販売活動も活発だった。こうしたことが後援会会員相互の絆を強めていったことは間違いない。そして選挙の時は集票マシーンとしての威力を発揮したと私は思っている。

 

 市議会でも党内でも存在感

 桜木さんは市議在任中、副議長(2009年5月18日~2010年9月4日)、常任委員会では総務委、議会運営委、厚生委、建設委の各委員長を歴任、特に稲葉三千男市政下(1990年~2001年)では、市長を支える与党の代表として、また市長のブレーンとして稲葉市長を支えた。

 議会で桜木さんと同じ会派に所属したこともある間宮美季市議は「新人議員である私にとって桜木さんは、面倒見のいい頼りがいのある先輩議員でした。『質問するときは獲得目標をはっきりさせろ。質問項目も三つくらいに絞れ』とよく言われました」と話す。

 桜木さんの議会での質問で、間宮市議には忘れられない思い出がある。2007年3月定例議会の予算特別委員会の予算案審議で、桜木さんが小中学校教育振興費の中に副読本の費用が計上されていないと追及したときのことである。担当部のミスによるものだった。計上されるべきものが計上されていなかったので大問題になり、予備費で充当することで決着した。この件があってから議員の間でも市役所内でも桜木さんへの評価がいっそう高まり、存在感も増したことは言うまでもない。ある市職員OBは「桜木さんは市役所内では誰にもざっくばらんに、しかも威張らずに丁寧に接していたので評判が良かったです。副読本の費用未計上問題は、職員の誰かが桜木さんに追及してもらおうと教えたのではないでしょうか」と分析する。

 社会民主党の中では、東京都連合会の常任幹事、財政局長、三多摩地区本部長を歴任し、社民党の三多摩地区地方議員の議会活動、議員活動、政策立案などの面を相談役、世話役として支え信望を集めた。通夜に福島瑞穂党首が焼香に訪れたのは、社民党の中で桜木さんが高く評価されていることを示している。

 

 一騎打ちの市長選挙

 桜木さんを語るうえで欠かすことができないのが、5年前の東久留米市長選挙だ。社民党や共産党をはじめ多くの市民から立候補要請を受けた桜木さんは、立候補を決意するのに迷いもあり、複数の信頼できる人たちに相談していたようだ。

 桜木さんは私に「立候補を決断したのは師岡武男さんが背中を押してくれたからだ」と明かしている。ひばりが丘団地在住の師岡さんは元共同通信の論説委員で現在、経済評論家。桜木さんの最初の市議選から支持し応援してきた人である。「桜木さんが市長選の相談に来た時、年より老けて見え、立候補するかどうか迷っている印象だった。その時は立候補を勧めなかったが、後に人づてに本人にやる気があり周りの人たちもその気だと知らされ、自分の不明を詫びた手紙を書き立候補するよう促したが、彼が立候補を決意するに当たって自分が影響を与えたとは思っていない」と明かす。

 師岡さんはまた「彼の政治家としての集大成とも言うべき市長選に、我々の力不足で勝たせてあげられなかったのは、本当に申し訳ない。彼とは長い付き合いだった。議員として私の期待に応えてよくやってくれた」と突然の死を惜しんでいる。

 

桜木善生さん

東久留米市長選で訴える桜木さん(2017年12月、写真@ノースアイランド)

 

 9期目の任期途中で議員を辞職し、市長選挙に挑んだ桜木さんは、社民、共産、自由の3党推薦で現職との一騎打ちに、2,340票差で惜敗した。私はこの選挙で選挙運動の責任者の一人として戦ったが、勝てる選挙を落としたとの思いで責任を痛感している。できれば桜木さんにもう一度市長選を戦ってもらい勝利し、市長として市民のための市政実現に腕を振るう姿を見てみたいと思っている。

 

 住民福祉へ尽きない情熱

 議員や首長になりたいと言う人は多い。しかし、議員や首長になって何をしたいのかを有権者に具体的に明示できる人は多くない。桜木さんは福祉をライフワークに東久留米市政の中で、住民福祉の充実を目指して奮闘して来た稀有な議員であった。家族によると最近は、東久留米市の障害者の生活記録や統計を冊子にまとめる構想を温めていたとのことである。議員でなくなってもライフワークを保持し続けるその姿勢には畏敬の念を抱かされる。

 弁解まがしいが、諸事情で障害団体関係者と桜木後援会関係者のみなさんから桜木さんの話を伺う機会を作れなかったのが心残りである。

 畏友・桜木善生は彼岸に渡ってしまった。私は月並みに「お疲れ様でした。安らかにお眠りください」などと言いたくない。日本の政治は、国政から都政、市政まで国民主権、国民・市民本位の政治とは程遠い状況が続いていると思っているからだ。だから桜木さんには申し訳ないが、彼岸から「政治をよくするためにみんなもっと頑張れ」と咤激励してほしいのである。

 語呂合わせではないが、名前の「善生」には「世の中で善いことをするために生まれてきた」という意味が込められているのかもしれない。因みに彼の法名は「釋善照」である。
合掌

 

【筆者略歴】
 鈴木信幸(すずき・ のぶゆき )
 1950年、福島県会津坂下町生まれ。明治大学法学部卒。新聞記者、労組専従、衆参議員政策秘書などを経て現在、フリージャーナリスト。1980~81年滝山団地、81~97年ひばりが丘団地に住む。西東京市在住。

 

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