神藤庄太郎像

「銅像歴史さんぽ・西東京編」5「神藤庄太郎」 東久留米駅開設に尽力

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2020年2月13日

 現在の西武池袋線の前身となる武蔵野鉄道が開通したのは1915(大正4)年4月15日。池袋~飯能間を小型の蒸気機関車が走った。途中の駅は練馬、石神井(現・石神井公園)、保谷、東久留米などで、東久留米駅は畑と雑木林に囲まれた地に造られたという。

 当初の計画では、東久留米駅設置は想定されていなかった。当時の久留米村(現・東久留米市)に鉄道を誘致し、駅を設置しようと動いたのが村会議員などを務めた村の有力者だった神藤庄太郎(1875~1948年)だ。

 東久留米市発行の「東久留米市史」は、ばい煙が養蚕に悪影響を及ぼすなどとして村内に反対の声が上がる中で、神藤はほとんど独力で陳情を重ねたと伝える。神藤が土地を寄付する条件で、鉄道の営業開始と同時の駅開設が実現、神藤は約3200坪の土地を提供した。この功績をたたえる神藤の銅像が東久留米駅近くの武蔵野稲荷神社(東久留米市東本町)にある。

 この時代、久留米村に限らず、鉄道の誘致、駅の開設が地域の発展につながるとして、多摩地区の各村でも地域の有力者が盛んに誘致運動を展開したが、久留米村ではこれですぐに村が栄えたというわけではなかった。

 

戦後まで農村のまま

 

 「東久留米市史」によると、開通した1915年の全線の1日平均乗降客数は1022人。この年の村の人口は4519人。農家が多く、都心に出向く用事もあまりなかっただろうから、東久留米駅利用客はかなり少なかったはず。10軒に満たない小さな駅前商店街ができたが、この状態は太平洋戦争の終戦直後まで続いたという。人口は戦後の1950(昭和25)年でも8415人。鉄道誘致が村の発展や都市化を強く押し進めたわけではなかった。

 ただし、鉄道は小麦などの農作物を貨物輸送する手段となり、村には農機具や化学肥料などが入ってきて、いわゆる商品経済への転換を促したという。

 

通学などにも使われている引き込み線跡の「たての緑地」=東久留米市学園町

 

 武蔵野鉄道は大正期にいち早く電化し、駅を増設、1929年に吾野駅(埼玉県飯能市)まで延伸した。戦時中には東久留米駅から、現在のひばりが丘団地(西東京市、東久留米市)にあった、軍用機の部品を製造した中島航空金属田無製造所につながる引き込み線が敷設された。引き込み線跡の一部は現在、遊歩道「たての緑地」として残る。終戦直後の1945年9月、旧・西武鉄道などと合併し、翌46年の名称変更で、現在の西武鉄道に至った。

 久留米村は戦後も農村のままだったが、1956年に「久留米町」に。転機は59年から始まるひばりが丘団地、東久留米団地、滝山団地などの大規模団地の登場で、人口は急増した。

 

小さな神社が守る

 

 1970年に駅と同じ名称の東久留米市となり、75年には人口が10万人を突破した。鉄道の誘致に即効性はなかったものの、駅があったからこそ、都心への通勤、通学もでき、大規模団地に人が移り住んだのだろう。神藤の奮闘は無駄ではなかった。

 東久留米駅は1994年に建て替えられ、富士山が眺められる駅西口2階の「富士見テラス」は「関東の富士見百景」に選ばれた。昭和の面影を残し、高橋留美子さんの漫画「めぞん一刻」に登場する「時計坂駅」のモデルとされた北口駅舎も建て替えられて、2010年に商業施設となり、すっかり様変わりした。

 

マンションや住宅に囲まれた武蔵野稲荷神社=東久留米市東本町

 

 「東久留米駅開発者」と冠され、1973年に建立された神藤の銅像がある武蔵野稲荷神社には、60年に建てられた顕彰碑も残る。マンションや住宅に囲まれた小さな神社だが、きれいに保たれ、ごみ一つ落ちていない。地域の人々が大切に守っていることが分かる。

 地域の発展に尽くした人の銅像は各地にあるが、銅像を建てた人々が代替わりし、新たな住民が増えれば、駅前再開発などで邪魔者扱いされ、撤去されてしまう銅像もある。東久留米市も新たな住民が大半を占め、神藤を知る人々は少なくなったはず。神藤の銅像が神社ではなく、駅前に置かれていたら、そんな憂き目に遭っていたかもしれない。
【メモ】武蔵野稲荷神社は西武東久留米駅から徒歩約2分
(墨威宏)(写真は筆者提供)

 

【筆者略歴】
墨 威宏(すみ・たけひろ)
 1961年名古屋生まれ。一橋大学卒業後、共同通信社の記者となる。93年から文化部記者。2003年末に退社し、フリーライターに。主な著書は、双子の育児の体験をまとめた「僕らのふたご戦争」(1995年)、各地の銅像を歩いてまとめた「銅像歴史散歩」(ちくま新書)など。

 

(Visited 2,607 times, 1 visits today)

「銅像歴史さんぽ・西東京編」5「神藤庄太郎」 東久留米駅開設に尽力」への2件のフィードバック

  1. 杉山尚次
    1

    レッドアローが走ろうと、ずっとこの駅は東口のみで、ものすごく不便な駅でした。ホームの向こうには頑な感じの畑が広がっていました。神藤さんの土地ではなかったのでしょうか。駅からこのお稲荷さんに行くには大変な迂回をしなければならなかったはずです。調べると、東久留米駅に西口ができたのは1994年。つまりそんな昔のことではありません。西口ができるまで約80年かかったわけですね。ちょっとナゾです。

    • 和泉仁司
      2

      >> 杉山尚次さん
      東久留米駅西口の開設の遅れと併せて、西武池袋線が池袋方面からひばりが丘駅を通過した直後に大きく北側に線路がカーブし、秋津駅通過後まで何かを迂回するような経路を観ると、当時から現在に至るまで土地所有者の方々が父祖伝来の地を手放し難いという事情があるのではないかと考えを巡らせてしまいます。

和泉仁司 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA