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「書物でめぐる武蔵野」第9回 新羅=新座郡はなぜ武蔵国にあったのか?

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年6月24日

杉山尚次(編集者)

 前回の記事に詳しいコメントをいただき(有難いことです)、渡来系のひとびとが武蔵国にやってくるルートについて、筆者が記述した太平洋ルートだけでなく、日本海側からの経路も考えられるのではないかというご指摘があった。その根拠として東久留米には4社ある氷川神社の存在を挙げられ、この神社はそもそも出雲の国に由来し、その伝達の経路は日本海経由であるとされている。筆者は素人ゆえ、その当否を判断できるわけではないが、一古代史好きからすると、おっしゃる通りだろうと思った。このことについて、もう少し考えてみたい。(写真は、南沢の氷川神社)

 

氷川神社は出雲系

 

 まずは「氷川神社」がポイントになるが、ひとつ訂正を。前回「渡来系のひとびとは、太平洋づたいに「東国」武蔵に入り」と書き、『江戸の川・東京の川』の著者が移住ルートを太平洋づたいとしている印象を与えてしまった。これは筆者の要約が悪く、この本はルートを限定しているわけではない。そうした経路は「遠く縄文・弥生人の時代から徐々に形成され…南方から、北方からのものが複雑に入り組んでいた」(p52)ということなので、「太平洋づたい」はひとつの例にすぎないことを申し上げたい。

 

 ということなので、日本海経由という話には説得力を感じる。なにしろ日本列島をめぐる海路は、古代においては日本海がメインだったと考えられるからだ。当時の先進文化は、大陸や半島を経由し、日本海を渡ってやってきた。われわれの今日的感覚以上にその交通は盛んだったに違いない。

 

 なので「新羅郡」が設置されるはるか前から、「出雲」の神々を信仰するひとびとが、東国に移住し(移住の理由は括弧にくくっておくとして)、「出雲系」の神社をつくったと考えることができる。

 

『隠された古代』

 その出雲系の神社のひとつが氷川神社である。この神社は総数228社、全国どこにもある神社ではなく、旧武蔵国に集中的に存在する。その総本社は大宮市にある氷川神社で、武蔵一宮という最上級の格式、祭神はスサノオ、オオナムチ、クシナダ姫といういずれも出雲と関係が深い。「社記」には神話の時代(紀元前?)、出雲の「氷の川上」に鎮座する杵築大社(出雲大社)を移したので氷川神社となったという。こういうときに必ず参照される『新編武蔵風土記稿』(19世紀に編纂された地誌)にそう載っているらしい。出雲にあるヒカワは「簸川」「斐伊川」「肥川」が当てられ、「出雲大社」は川上にはないというヘンなところはあるものの、氷川神社が出雲と深い関わりがあるのは間違いない(以上は近江雅和『隠された古代』p8、1985年、彩流社による)。

「ひばり」周辺の氷川神社

 

 ご指摘のあったように東久留米市に氷川神社は4社、新座市には5社、西東京市には2社あるようだ。いずれもその名のとおり川の近辺に存在しているように見える。なかでも東久留米市の南沢氷川神社は、平成の百名水に選ばれた「南沢湧水群」のなかにあり、水との深い関わりを感じさせる。

 

 また、南沢氷川神社の1キロほど下流、落合川と黒目川が合流する地点の近くには神山氷川神社がある。

 

神山氷川神社

落合川合流地点

落合川(左)と黒目川の合流地点、橋の右を少し行くと神山氷川神社がある

 

 このなかで一番古い創建*は、新座市にある大和田氷川神社の802(延暦21)年のようだ。これは新羅郡の設置758年の後だから、氷川神社を奉ずるひとびとが新羅郡の設置以前に、新座や東久留米あたりまで来ていたことを確定させるのは難しいかもしれない。

*この件はネット検索によった。大和田氷川神社の創建は、新座市教育委員会と『新編武蔵風土記稿』ともに802年となっている。南沢氷川神社の公式サイトによると創建は未詳だが、この社には在原業平伝承があるようなので、9世紀あたりかと想像される。

 

 ただ、東国にはスサノオ、オオクニヌシという出雲系の神さまを祀る、創建は弥生時代という伝承をもつ神社は多い。たとえば、かつての武蔵国の中心、府中の大國魂神社の祭神「大國魂大神」はオオクニヌシと同神と考えられていて、この神社も出雲系である。また武蔵国には出雲系の古社が多い(一宮から六宮までのほとんどが出雲系)ことからしても*、「出雲の人々は、ごく早い時期、弥生時代の末ころから古墳時代にかけて、近江、大和だけでなく、遠く東国まで進出していた」とみることができよう**。

*  出川通『[首都圏近郊]出雲系神社探索ガイド 東日本に広がる古代出雲の世界』2017年、言視舎
** 岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』p167、2013年、平凡社新書(以下『神社の起原と…』)

 

出雲系の移動

 

出雲系神社探索ガイド

『出雲系神社探索ガイド』

神社の起源と古代朝鮮

『神社の起源と古代朝鮮』

 この時代の出雲系のひとびとの「東進」について、『神社の起源と…』は興味深いことを述べている。そのルートについて、彼らは北陸から信濃に入り武蔵国に入ったのだろうと推理する。出雲と北陸は海路でつながっていたはずだし、信濃と出雲の関係は『古事記』にも出てくるほど古い。つまり「北陸から信濃へのルートが開かれていて、この地に出雲の勢力が根を張っていた」と推論する(p169)。

 

 さらに、出雲系のひとびとが武蔵国に展開していったのは、「鉄」を求めたのではないかと述べる。古代において鉄は農業の技術を進め、強力な武器にもなった。鉄を求めて移動した例として埼玉県児玉郡(現本庄市)にある金鑚(かなさな)神社を挙げている。この神社の祭神はスサノオ、つまり出雲系であり、地元の神ではない。金鑚神社周辺は金属資源が豊富で、それを求める出雲系の集団がこの地に移住し、同神社を奉じたというのである。なお、スサノオが古事記・日本書紀の神でありながら、朝鮮半島からの渡来の神であることは、ほとんど通説になっているようだ(p110)。鉄の神とする説もある。武蔵国と渡来文化とのかかわりは、こんなところに見え隠れしている。

 

7~8世紀、東アジアの政治状況

 

 このように、古代史の世界は深くほとんどミステリーだ。素人なりにこれを楽しむためにも、日本列島の動向だけではなく、中国大陸、朝鮮半島、それぞれの動向を対照しながら見ていく必要がある。その動向が当時のイナカである武蔵国に案外関係しているところが面白い。

 

 そこで、前回紹介した講演*をもう一度参照したい。この講演で宮瀧交二教授は、7世紀に武蔵国に高麗郡や新羅郡があったということは、現在でいえば「埼玉県に韓国市ができたと同じような位置づけ」になるということを述べておられる。

*2018年11月24日、和光市教育委員会主催のシンポジウムにおける宮瀧交二教授(大東文化大学文学部)の講演「武蔵国新羅郡誕生の歴史的背景について」より

 

 さらに、高麗郡や新羅郡設置の背景として7~8世紀の東アジアの緊迫した政治状況を挙げている。この頃朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の3国に分割されていた。日本列島の倭国(7世紀末律令制の確立までは「日本」ではなく「倭国」とする)の為政者は百済と親しい関係を築いていた。ところがこの百済は660年、新羅と唐の連合軍に滅ぼされてしまう。663年、旧百済軍は復興を図ろうと挙兵、これを支援するために倭国は出兵した。これが「白村江の戦い」で、倭国は手ひどい敗北を喫した。勢いづいた新羅は、668年に高句麗も滅亡させる。

 

 この動乱の結果、百済や高句麗から、さらには新羅からも数多くのひとびとが倭国に移住してきた。倭国の政権はこうした事態を受け入れ、国家的な意図をもって渡来人を武蔵国に移住させた*。

*この移住については『日本書紀』や『続日本紀』に記載されているようだ。『日本書紀』の編纂には、白村江の戦いでの敗北後渡来した百済系の人が多数関与しているので、「新羅敵視観」が強いとする説がある。『神社の起原と…』p40

 

なぜ武蔵国に高麗郡や新羅郡が?

 

 では、どのような意図かというと、宮瀧交二教授はそれを「日本型の中華思想」と呼ぶ。7~8世紀、隋や唐が東アジアの盟主として冊封体制をつくり、自らを中心とする「中華思想」をもって周辺諸国に臨んでいたことはよく知られている。このミニチュア版の中華思想を、倭の権力者はもっていたという。国内を同心円的に中心部と周辺部に分け、その外側には野蛮な国「隼人」や「蝦夷」があるという発想である。百済や高句麗、それを滅ぼした新羅も蛮国(野蛮な国)扱いとなる。東国という周辺部に高麗郡(716年)・新羅郡(758年)を置いた。仏教伝来(538年)も百済からだったように親交のあった百済郡は大阪の摂津に設置(664年)した。つまり、天皇は慈悲深い心で、滅んでしまった百済や高句麗や、新羅のひとびとの面倒までみている、アジアのナンバー2は自分たち=倭国なのだ、ということを唐にアピールしたというわけだ。これが高麗郡・新羅郡が武蔵国に設置されたひとつの理由だと考えられる。

 

 なお、高麗郡から新羅郡の設置まで40年の差があることについては、新羅はそのとき現存する国家なので、新羅郡設置はやりすぎではないかという躊躇があったためと推察している。

 なにはともあれ、7世紀の武蔵国は東アジアの国際状況と密接につながっていたことは間違いなさそうだ。

 

 こうした異国を野蛮として見下す偏狭なナショナリズムは、幕末の尊王攘夷思想につながっていく。「ヘイトスピーチ」も同根だ。もっとも〝本家〟はもっとえげつない。最近の中国には「東北工程」という歴史再考事業があって、高句麗を独立国とみず、中国の出先機関だったと考えているらしい。その一環で「キムチを中国文化扱い」し、韓国から猛反発を受けていることを読んだ(東京新聞、2021年6月7日夕刊)。

 

 古今東西、国家にはそういう〝性癖〟があるのは間違いないと思っている。

 

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「書物でめぐる武蔵野」第9回 新羅=新座郡はなぜ武蔵国にあったのか?」への2件のフィードバック

  1. 富沢木實
    1

    日本の歴史は、京都・奈良を中心に書かれていますが、時折、鹿島神宮から鹿に載って春日大社に神様が来たとか、平将門が出てきたりします。広大な武蔵の国から北には、歴史がなかったようになっていますが、人は居たはず。是非、いろいろな話を発掘して欲しいです。

  2. 杉山尚次
    2

    富沢さま、コメントを有難うございます。「発掘」ととっていただけたとしたら光栄です。幸いネタはまだまだあります。素人ですので、かなり危なっかしいですが、引き続き励みます。

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