石神井公園周辺

書物でめぐる武蔵野 第20回 石神井と豊島氏から〝江戸以前〟を探る

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2022年6月23日

 まだ試したことはないのだが、西武線とあまり縁のない人に「石神井」という地名を見せると、どれくらいの人が「しゃくじい」と読むだろうか。案外難読地名かもしれない。今回はその「石神井」と、前回からふれている「石神井川」をめぐるあれこれについて探ってみたい。
(写真は石神井公園周辺。いわれてみると城跡の感じがある?)

 

「石神」信仰

 

表紙

東京「消えた山」発掘散歩

 「石神井」の「石神」は、「いしがみ」とも「しゃくじん」とも読む。この文字からして変わった石などを神様として崇める古代からの信仰と関係がありそうだ。石神井公園駅の北側に創建年代不詳の石神井神社がある。地名の由来はこの神社にあるといわれている。そのものズバリの名前なので意外なことはない。ただ、いくつか説もあるようなので、この先の「謎解き」は、石神井川流域を散歩コースのように紹介するパートがある『東京「消えた山」発掘散歩』(川副秀樹、言視舎)の助けを借りて進めることにする。

 同書が引用する『新編武蔵風土記稿』によると、三宝寺池から出た石剣が石神井神社のご神体になったという。また『江戸名所図会』は、むかしむかし、村人が井戸を掘っていると変わった石が出てきた、それは「石剣」だったのでそれを石神として奉った、と説明しているようだ。

 なにしろ大雑把な年代すらわからないので、確かなことはいえないが、かなり古い自然信仰がベースになった地名ということになる。

地図

石神井公園周辺地図(クリックで拡大)

 同書はこの先が面白い。それでは「石剣」はどこにあるのか、調査しているのだ。石神井公園にある「石神井公園ふるさと文化館」や「石神井氷川神社」で尋ねると、石神井神社に保存されているはず、とのこと。そこで著者は石神井神社を直撃する。

《練馬区教育委員会の解説板には「…石剣もまた本殿の奥深く御神体として奉祀されております」と書いてあるのでさっそく…が、「さあ…」と首を傾げて神社の方は気まずそうな顔をされた。とうの昔にその石剣はなくなっているのだ。》(p74、右の地図も同書より)

 

 まあ、いつの時代かもわからないので、無理からぬことではあるが、「解説板」はなに? とツッコミたい気分もなくはない。そもそも三宝寺池から出た石剣が、なぜかなり離れた神社の神体になったのだろうか。もっというと、三宝寺池は武蔵野三大湧水* とされるくらいだから、自然信仰を生む条件はそろっている。ここに地名の由来となった神社があるとそれらしい物語ができそうだが、そう都合良くはいかない。この謎についてはお手上げである(三宝寺池近くの石神井氷川神社の創建は室町期らしい。この時期すでに「石神井」という地名があるので、地名の由来はもっと昔と想像される。よって、氷川神社に神体がないのは理解できる)。

*ほかの2つは、井の頭池と善福寺池。どちらも江戸・東京にとって重要な神田川と善福寺川の源流となっている。

 

石神井川はどこからどこまで?

 

表紙

広重画「江戸名所百景 王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱」

 もうひとつ気にかかっていたことがある。なぜ石神井川の水源は石神井ではなく、小平市の「小金井カントリー倶楽部」内の湧き水となっているのか。これは1級河川の起点がそうなっているから、現在はそのように定義づけられているということなのだろう。しかし、石神井より西は違う名前で呼ばれていた時代があったという説もあるようだ。この説はいつのことなのかわからないし、典拠もないものの、石神井川の下流は「滝野川渓谷」「音無渓谷」とも呼ばれているところもある。上流に異名があっても不思議ではないだろう。

 ともあれ現在の石神井川は、水源を出てすぐ小金井公園脇を通り、西東京市を流れ、前回みたように武蔵関近くの富士見池、三宝寺池と石神井池の水を合流させ、豊島園を通り、板橋から王子駅の下をくぐって隅田川に注いでいる。

 本来、石神井川は隅田川方向ではなく南に流れ、不忍池(縄文海進時の入り江だった名残)まで流れていた。これが現在のように隅田川に流れるようになったのはなぜか。地元の北区は、専門家のボーリング調査の結果、縄文期の自然掘削説をとっている。しかし異論もある。石神井川は中世期、人為的に流れを変えられ、隅田川に流れるような工事がなされた、という説である。これを唱えるのは、連載8でも紹介した『江戸の川、東京の川』の鈴木理生だ。鈴木はこの〝工事〟をおこなったのは豊島氏である可能性を述べ、そうであるならば、それは「石神井川上流と下町低地を結ぶ灌漑水路の開発の結果」ではないかと推察している(p93)。

 * 鈴木はその後の著作『江戸・東京の川と水辺の事典』(2003年)』でも、北区の説を紹介しながらも、人為説を展開しているようだ(未読)。

 

地図

石神井川西

地図

石神井川東(地図は『東京「消えた山」発掘散歩』より ➊❺が豊島氏の城址)

 

 これら説について、正否等は筆者には判断できない。しかし、上に挙げた地図をもう一度ご覧いただきたい。豊島氏が石神井川沿いにこれだけの城を設け、自らの拠点を強化しているところを見ると、豊島氏と石神井川との深い関係を読み取っても間違いはあるまい。

 

 

江戸氏をはじめとする秩父平氏の一族

 

 さて、ここからは今回の主役ともいうべき豊島氏の出番、といきたいところだが、その前に、徳川家康が江戸城に入るまでの、武蔵国における複雑に絡み合った支配層の騒乱について述べたい。登場人物が多すぎてかなりややこしいので、大胆に端折らせていただいた。情緒的にいうと、地方の豪族が大きな権力にいいように使われ、やがて潰されるという悲哀の物語ということになる。

 *この項目の執筆にあたっては、平野勝『むさしの城ものがたり』(2005~07年東京新聞に連載、前編・後編の小冊子となったが、現在は入手困難)、児玉幸多・杉山博『東京都の歴史』(2版1991年、山川出版社、現在新版が出ている)を参照させていただいた。

表紙

表紙

 豊島氏は秩父平氏の流れをひく武士の一族である。鎌倉期の12世紀、豊島氏は先に見た石神井川沿岸、現在の豊島区、練馬区あたりの領主となったと推定されている。

 秩父平氏というのは、平安時代、武蔵野国に誕生した武士団のひとつ。秩父平氏には、豊島氏のほかに、江戸氏(江戸城をつくる)、渋谷氏(渋谷城!が拠点)、小山田氏(町田市)、河越氏(埼玉県川越市)、畠山氏(埼玉県深谷市)など、どことなく地名を想起させる一族がいた。

 秩父平氏一族は、源頼朝による鎌倉幕府創設に貢献したようだが、このうち畠山氏、小山田氏、渋谷氏は、執権北条時政の策謀によって滅ぼされている。

 一方、12世紀に江戸城を開いた江戸氏は、秩父平氏一族の棟梁と称される。

 南北朝時代に入ると、江戸氏は親戚筋の河越氏らとともに同族集団「平一揆」を形成し、足利尊氏に従い、室町幕府成立に貢献した。足利尊氏・直義兄弟の対決(観応の擾乱)でも尊氏に与した。しかし、その後の過程で、鎌倉公方に対する不満を募らせ、平一揆の乱* を起こす(1368年)。これは関東管領・上杉憲顕らによって鎮圧されてしまい、この後、江戸氏・河越氏は衰亡していくことになった。

*この乱には豊島氏も参加したが、致命的なマイナスとはならないように立ち回ったようだ。

 

争乱のなか太田道灌の役割

 

 室町時代中期、京都で応仁の乱が始まった1467年前後、関東も争いの連続だった。

 関東北部の古河を拠点にし、足利成氏が「古河公方」を名乗る (これで「公方」は二つに分裂)。そして関東管領職を独占することとなった山内上杉氏、扇谷おうぎがやつ上杉氏の両上杉氏が加わり、それぞれがヘゲモニー争いを繰り返している。ここに地元の豪族が絡み、争いは長く続いた。

 太田道灌は扇谷上杉氏の家宰(家老)で、1457年に江戸城をつくった(つまりは改築した)ことで有名。有楽町時代の都庁には銅像があった。築城の名手でもあったようで、古河公方に対抗するため、江戸城のほか岩付(岩槻)城、河越(川越)城も彼が築いたといわれている。

 もうひとつの上杉家、関東管領山内上杉顕定の家宰になるはずだった長屋景春が問題を起こす。景春も知略に優れていたそうだが、それが逆に禍して主家の不興をかい、家宰になれなかった。それに不満をもった景春は、敵の敵は味方ということか、主家が対立している古河公方・足利成氏と組み、さらには武蔵・相模の豪族の一部を巻き込み、主家+扇谷上杉氏に反旗を翻した。1476年のことである。これは文明8年で、武蔵野全域を巻き込む「文明の乱」といわれる。

 このとき、豊島氏や八王子の大石氏などは景春側につき、世田谷の吉良氏、青梅の三田氏などは道灌側についている。

 

江古田も石神井も戦場だった

 

表紙

『決戦』の表紙

 

 ここでやっと石神井川周辺に拠った豊島氏に戻る。なぜ豊島氏は太田道灌と戦うことになったのか。もともと領地をめぐる遺恨もあったようだが、それ以上に豊島氏がこの長尾景春の反乱に便乗して起死回生を図ろうとした、とみるむきもある。『決戦-豊島一族と太田道灌の闘い』(葛城明彦、改訂新版2012年、ブイツーソリューション)は次のように述べている。「道灌の江戸築城以後、全くのジリ貧状態にあった」豊島氏は、「道灌を倒し、(景春の反乱を)勢力を挽回するための最後のチャンス」ととらえていた。「豊島一族は名家としての誇りと意地を賭け、道灌と敵対する道を選択した」(p49)。

 この選択は凶と出たようだ。
 景春が挙兵したとき、道灌は駿河に〝出張中〟だった。ただ、前々からこの事態を読んでいたと思われる道灌は素早く対応、駿河から戻ると、1477年4月江古田原(中野区、哲学堂公園あたり)で豊島泰経やすつね泰明やすあき兄弟と対決した。

 結果は豊島氏の惨敗。弟の泰明は戦死、兄泰経は居城の石神井城に逃げ戻った。

 道灌は石神井城を包囲し、城はあっけなく落城した。泰経は逃亡、翌年平塚城で再起を図るが失敗、その後のゆくえはわかっていない。

 このようにして豊島氏は滅亡した。なお石神井落城の際、城主とその娘の照姫が三宝寺池に入水したというのは、後世の創作らしい。「照姫の塚」は「三宝寺六代定宥上人の埋葬塚」とのこと(『決戦』P84)

 

三宝寺池

三宝寺池

上下とも三宝寺池 上の左手の森が石神井城跡

 

 その後、道灌は景春討伐に向かう。その追及は執拗だったが、景春はなんとか古河公方のもとに逃げ込み、1514年72歳で没した。

 太田道灌はこのように戦上手で、教養人でもあったが、その有り余る才能を疎まれたのか、1486年、主家上杉定正によって謀殺されてしまう。55歳だった。

 こういう愚か者が栄えるわけがない。扇谷上杉家は1546年、河越夜戦で10分の1の兵力の北条氏康らに敗れ、滅んでいる。

 やがて、この地域の支配層は、後北条氏、徳川氏と移り変わっていく。

 

杉山尚次
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