「中島飛行機」関連地域をフィールドワーク 「しじゅうから第二公園」から「下野谷遺跡」まで 田無地方史研究会
「中島飛行機」は戦前、武蔵野市や西東京市などの関連工場で、戦闘機などを開発、製造しました。このため米軍による空襲の標的になり、周辺住民にも多大な被害が出ました。地域史を学ぶ「田無地方史研究会」のメンバーらが11月中旬、広い関連地域を4時間余りかけて尋ね歩きました。会員の松崎博さんの報告です。(編集部)(写真は、武蔵野中央公園に残る中島飛行機工場の地下壕のコンクリート床)
田無・保谷と隣接する地域の歴史を楽しむ田無地方史研究会(代表近辻喜一)は11月13日(日)に、11月活動としてフィールドワークを行いました。
柳沢公民館に20名の会員が集合し、中島飛行機と下野谷遺跡に詳しい滝島俊会員の案内で午後1時に出発。同会員が設定した訪問ルートは、今夏の例会でのテーマを反映し、米軍の模擬原子爆弾の着弾地点「しじゅうから第二公園」から始まり、中島飛行機慰霊碑のある東伏見稲荷神社、中島飛行機武蔵製作所跡地の武蔵野中央公園や国の史跡である「下野谷遺跡」まで約4.6キロ、1万3000歩の汗を流して東伏見駅前で解散、となりました。のらりくらりの、おおよそ4時間の歩行は爽快でした。
8月の例会で「中島飛行機武蔵製作所」を特別テーマにしたこともあり、会員の「中島」への関心も高く、日頃、書籍など文字資料や写真などで地元史を楽しんでいる会員の慢性的な運動不足対策の一つとしても、秋空の下、外を歩きたいという声があがり、今回のフィールドワークとなりました。
おりしもウクライナとロシアが戦闘を交え、日本近海や領空も隣国の軍事的挑発に脅かされると言われる中、西東京市内と近隣に残る中島飛行機に由来する戦跡・旧跡を訪れ、それらを直接目にすることで、78年前の空襲の実態や状況を少しはリアルに感じることが出来た気がしました。
石神井川南岸の「下野谷遺跡」では、市担当者の説明・質疑応答もあり、縄文時代の石神井川に生活拠点を見つけた人々の暮らしぶりを垣間見ることができました。
当会は長年田無・保谷および隣接する地方史に興味をもつ男女(会員約50名)が毎月第3日曜日にコール田無に集い、研究発表を行い、地域の歴史を楽しむ会です。興味をもたれた方は事務局 松崎までご連絡ください( hiro.ritva@gmail.com)。
(松崎博)(写真は筆者提供)
【関連情報】
・田無地方史研究会(HP)
【筆者略歴】
松崎博(まつざき・ひろし)
旧田無市生まれ。大学卒業後、北欧に留学。帰国後、会社勤めを経て、田無市に英語学校。アメリカンハウス開校。シチズン時計、武蔵野大学などで英語講師。英語本70冊執筆。春夏は北欧、秋冬は西東京に滞在。多摩の幕末維新を研究中。