老舗物語 第3回 シチズン時計
創業105年 「市民に愛され市民に貢献する」

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年4月21日

 西東京市に本社を置く大手企業として知られるシチズン時計(佐藤敏彦社長)。本社移転は2001年だが、工場ができたのは1936(昭和11)年で、地域とともに80年以上の歴史を誇る老舗だ。その歩みを伝えるシチズンミュージアム館長の高橋隆行さん(59)と、同ミュージアムの崎田英一さん(63)に話を聞いた。

 

シチズン

シチズン時計の歩みを語る(右から)崎田英一さん、高橋隆行さん(田無町の本社前、倉野武撮影)

 

高田馬場で創業 第一号の商品名が社名に

 

 シチズン時計のルーツは、1918(大正7)年、貴金属商の山崎亀吉が「国産時計を作りたい」と高田馬場で創業した尚工舎時計研究所。1924年に懐中時計第一号が完成。この時計に山崎と親交があった当時の東京市長、後藤新平が「シチズン(市民)」と命名した。

 高橋さんがその経緯を話してくれた。

 「永く広く市民に愛されるようにという願いがこめられ、また後藤さんが演説などで『市民諸君』と話していたので、この言葉が出てきたのではないか。また、一般の人に使ってもらうための時計を作るということで、値段も当時の輸入時計が50~60円だったのに対し、12円50銭。現在の価値なら3~5万円で、一般の人にも手が届きやすかったと思います」

 最初は時計の名前だった「シチズン」が、1930年に会社を再編した際、社名にもなった。

 この懐中時計「シチズン」には、昭和天皇が晩餐会でも着けるなど愛用していたというエピソードもあり、ミュージアムには当時の「国産シチズン時計 陛下の御常愛を賜る」という見出しの新聞記事も残っている。

 「創業から懐中時計の開発までに6年かかったわけですが、この間に技術者を育てる時計学校を創り、時計の部品はもちろん、部品を作る機械も自分たちで作っていました」と崎田さん。シチズン時計となった翌年に完成した男性用腕時計第一号が爆発的に売れ、その部品を作るため1934年に淀橋工場、そして1936年に建設されたのが田無工場だった。

 

敷地2万坪の田無工場 最盛期は従業員4700人余

 

 「部品の輸送を考えて青梅街道があり、現在の西武新宿線があり、広大な土地もあったのが、田無を選んだ理由と聞いています。当時の敷地は2万坪で、どこまでが敷地かわからないので境目に植えたサクラが今も何本か残っています」(崎田さん)

 

田無工場建設予定地

畑だらけだった田無工場建設予定地(1935年、シチズン時計提供)

工場周辺の空撮写真

1954年の工場周辺の空撮写真。右下に西武線の線路が見える(シチズン時計提供)

 

 工場建設から戦後、高度成長期まで、時計を作れば飛ぶように売れ、生産が間に合わないほど。「建物を増築し、生産量も増えて、田無で働く従業員の数も増えていった。生産ラインで女性も多く、地元採用や西武線沿線からの人も。田無駅から工場まで(ほぼ一本道で徒歩約10分)人の列が続いていたといわれています」と崎田さん。

 

シチズン

女性従業員がズラリ並んで作業する様子(1961年、シチズン時計提供)

 

 敷地内には、工場棟のほか運動会なども行われたグラウンドや社宅、社員寮、地域の人も買い物に訪れた生協などもあった。田無工場の従業員数は増え続け、同社の記録では、1968年の4772人がピーク。工場スタッフで周辺の飲食店なども賑わったという。長く時計の開発に携わり、一級時計修理技能士の資格も持つ崎田さんは1983年の入社直後から10年間、田無に勤務した。「まだ(駅前の)リヴィンができる前で、商店街でしたね。シチズン御用達の飲食店も多く、飲み屋さんも課によって縄張りがありました(笑)」。

 本社は70年代から新宿三井ビルにあったが、開発部門や販売部門などは別々の場所にあり、プロジェクトで会議のたびに田無に各部門から人が集まっていた。1986年に入社後、デザイナーを務めてきた高橋さんは2016年まで田無勤務の経験はなかったが、「打ち合わせなど、出張でよく田無に来ていました。工場の油の匂いがして、現場という感じでしたね」と思い出す。

 

2001年本社移転 卓球部が市の親善大使も

 

 その後、工場の生産設備は徐々にグループ会社に移転し、2001年、工場跡地に本社が移転した。地域との交流では、本社移転前からの工場見学イベントや市民まつりへの参加、市内の多摩六都科学館での時計組み立て教室などに加え、2016年にはミュージアムもオープン。敷地内にあるため一般公開はしておらず、本社への来客を案内したり、地元小学校の社会科見学を受け入れたりする程度だが、受け入れ態勢を徐々に広げ、さまざまなイベントを展開していく考えもあるという。

 また、近年は同社唯一の社定競技で、約60年の歴史を誇る卓球部と地域の連携も進んでいる。同部は企業チームとして数々の名選手を輩出し、日本のトップクラスで活躍しているが、2016年からは西東京市立の各中学校卓球部と交流も。中学校や同社の卓球場で一緒に練習したり、日本リーグの試合に招いたりしている。

 自身、2019年まで卓球部で活躍し、現在は広報を務める森田侑樹さんは、「2019年から卓球部が西東京市の親善大使にもなったので、市を卓球の町として広めていきたい。同時に、スポーツを通じてシチズンブランドの認知度アップにもつなげていけたら」と力を込める。

 認知度アップの思いは高橋さんも同じ。「若い世代の時計離れも課題に挙げられている中、シチズンと聞いてまずは時計を作っている会社だと知ってもらい、ファンを作りたい。子供のころから親しみを持って、ゆくゆくはお客さんになってくれたら」。そして崎田さんが言葉を継ぐ。

 「携帯電話やスマートフォンの普及で、時計は必需品ではなくなってきた。でも、実際に見て腕に着けてみるとほしくなったりする。まずは時計に興味を持ってもらいたい。イベントなどでは、時計の部品を探す遊びもあります。ピンセットでつまむような部品に触る体験を通して、時計ってすごいなと思ってもらえたらうれしいですね」

 

工場内のサクラ

3月下旬の工場敷地内には開設当時から樹齢80年以上のサクラが咲いていた(倉野武撮影)

 

 創業から105年、田無の地で87年。取材の後、崎田さん、高橋さんたちの案内で敷地内を見学した。開設当時に植えられたサクラの木が見下ろしていた。
(倉野武)

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【関連情報】
・シチズン時計株式会社(HP

 

倉野武
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