「書物でめぐる武蔵野」第6回「軍事秘密」をめぐる暗闘 武蔵野、そして青森

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年3月25日

杉山尚次(編集者)

 前回、この武蔵野地域(主に東久留米)に、外国の無線をこっそり傍受する旧日本陸海軍の2つの施設があったことにふれた。そして、海軍の「大和田通信隊」に注目し、関連する阿川弘之の戦記小説を取り上げた。今回は、陸軍の「北多摩通信所」が登場する吉村昭の戦記小説『大本営が震えた日』(新潮文庫)を読んでみたい。

 *なお、『大本営が震えた日』に「北多摩通信所」の記述があることは、今回も『東久留米の戦争遺跡』(東久留米市教育委員会)に教えていただいた。著者の山﨑丈氏にこの場を借りてお礼申しあげたい。

 

『大本営が震えた日』の北多摩通信所

 

『大本営が震えた日』(1968年刊)は、太平洋戦争開始をめぐる日本軍の〝綱渡り的〟といっていい数々のエピソードを描いた作品だ。

 

 昭和12(1937)年に始まる日中戦争が泥沼化していくなか、アメリカとの関係が悪化し、日本はついに米、英、蘭との開戦を決意するにいたる。開戦は昭和16年12月8日に定められ、同時多発的にハワイの真珠湾、マレー半島、香港を奇襲することが、極秘裏に進められていた。

 

 この「同時多発的」かつ「奇襲」ということがポイントとなる。緒戦で勝利し、その勢いで以降の展開を有利に運ぶべく、なにがあっても実現させなければならない作戦だった。奇襲のためには、情報の秘匿は絶対条件だ。太平洋をまたにかけるような行動である。同時多発だから、どれかひとつの秘密が漏れただけで、この作戦全体が水泡に帰す危険がある。緻密な計画が立てられた。

 

 近代戦において情報はとてつもなく重要だ。すでに昭和8年に久留米村に設置されていた北多摩通信所では、所属する将校、下士官、通信士、技手たち「全員が諜者」となって、太平洋や大陸を飛び交うアメリカ、イギリス、中国、ソ連などの電波を追いつづけていた(もっとも通信所の所長すら作戦の内容は知らされていなかった)。
 そして開戦直前。

《(南方方面への上陸作戦とハワイの真珠湾への攻撃)作戦は、奇襲を前提としているだけに、その企図の秘匿は大本営の最大の関心事だったが、それが完全に果たされているかどうかを知る陸軍部のてがかりは、…諜報関係者の情報と北多摩通信所を中心とした米、英、蘭三国軍の発する通信文の傍受であった。》(文庫p147)

 

 大本営は、その情報に一喜一憂することになる。そのなかでもっとも大本営を震えあがられせた事件が、この本の冒頭に掲げられた「上海号」不時着事件である。

 

「上海号」不時着事件

 

 昭和16年12月1日、つまり開戦の直前にその事件は起こった。台湾・台北の飛行場から広東飛行場に向かった中華航空のDC3型旅客機「上海号」が遭難した。同機には極秘中の極秘「開戦指令書」を運ぶ役割の将校が乗っていたため、大本営はほとんどパニックに陥る。当時、台湾と広東は日本軍の勢力下にあったが、「上海号」が日本の勢力外の敵地に墜落し、指令書が敵の手に渡ってしまうおそれがあるからだ。そうなれば綿密に計画されている奇襲作戦が相手に知られ、奇襲が奇襲でなくなってしまう。ハワイから東南アジアに及ぶ大規模な作戦が崩壊しかねないのだ。

 

 やはり「上海号」は敵地で不時着していた。空からの捜索では生存者は確認できないが、中国軍に発見されるのは時間の問題だった。陸上からも不時着場所まで敵地の中を進撃し、重要機密書類の完全焼却に向かうが、一刻を争う。焦燥にかられる南京の支那派遣軍総司令部は、「機内には生存者はいないものとして、上海号を粉々に爆砕する」ことを命じた。不時着機周辺には何度も爆撃が繰り返された。

 

 しかし、生存者はいた。中国軍の攻撃と味方からの爆撃からかろうじて逃れ、結果的に搭乗者18名中2名が生還している。件の将校は事故では無事で、指令書も焼却したが、逃走中に惨殺された。

 

 著者の吉村昭はこの生存者に直接取材しているという。それどころか本書に登場する人物の大半には会っているというから驚かされる。これは、吉村戦記文学の真骨頂というべきところだろう。吉村は戦争を記す方法について、「戦争を解明するのには、戦時中に人間たちが示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだ」(『戦艦武蔵』「あとがき」、新潮文庫)と書く。吉村の戦記は圧倒的な量の取材がベースになって成り立っている。この『大本営が震えた日』も、太平洋戦争の開始において日本の奇襲作戦は成功をおさめたものの、実際はヒヤヒヤの連続だったことが明かされている。そこが本作の読み応え(あえて言えば面白み)だといってもいいだろう。

 

味方に殺されることもある

 

 ひとつ気になったエピソードがある。「上海号事件」と似ているということで紹介されている駆逐艦「初雪」の事件だ。昭和10年、海軍の大演習中、超大型台風に遭って「初雪」は破壊され、切断されてしまう。切断部には24名が閉じ込められたまま、曳航もできず漂流することとなった。海軍の中枢部は、「切断部中のある士官室におさめられた暗号書等が第三国の手に落ちることを恐れ」、「初雪」を砲撃・沈没させることを命じた(『大本営…』文庫p43)。

 

 24名は演習中、味方に殺されたわけである。情報のほうが人の命よりも重い。まあ、人命より写真(御真影)が大事、ということもあったわけだし、軍事とはそういうものだ、と理解することは重要だと思う

 

 もうひとつ、機密情報と軍用機の墜落で思い出したことがある。2019年4月、青森県三沢基地に所属する航空自衛隊の戦闘機F35Aが訓練中、青森県沖の太平洋に墜落した事件だ。F35は、敵のレーダーにひっかからないステルス性能を持つ最新鋭の戦闘機。開発したアメリカは同機を日本はもちろん、全世界に配備しようとしていた。ハイテクで武装したF35の機体自体が「軍事機密の塊」であり、墜落した機体が第三国に渡ってしまうと、日米の防衛戦略に影響を与えかねない。

 

 墜落機の捜索には、米軍が異例ともいえる大規模な態勢で加わった。血まなこになって探したものの、発見されたのは尾翼などで、機体の中心部やパイロットは見つからなかった(その後、機体と遺体の一部は見つかったが、肝心のブラックボックスは不明のまま、捜索は終了した)。捜索態勢が異例なら、事故原因の報告も異例な早さだった。航空自衛隊は6月、原因として操縦士が「空間識失調」(自分の姿勢・位置・速度がわからなくなる状態)に陥った可能性が高いと発表した。これに対しては、軍事、航空の専門家から結論が早すぎる、早期の幕引きを狙ったのではないか、との声があがったようだ。つまり、機体に問題があったら、高価なF35を大量配備したい日米政府の思惑が狂ってしまうので、それに忖度した結論ではないか、ということだ。

 

 軍事についてはとにかく隠せ、という日本の姿勢は、いまも昔も変わっていないといえるだろう(*この事件については、三沢基地の地元紙『東奥日報』の斉藤光政記者による一連の記事と氏の雑誌掲載記事「F35A機墜落ー日米軍事戦略への衝撃」[『世界』2019年7月号]を参照した)。

 

解読されていた暗号

 

 さて、日本の大本営は、緒戦において情報が洩れることをおそれて「震える」思いをしたわけだが、その後、そのおそれは現実のものとなった。

 

 太平洋戦争の転機となったといわれる昭和17年6月の「ミッドウェー海戦」。このときすでに米軍は日本の暗号を解読しており、「太平洋艦隊ニミッツ司令長官は、ミッドウェー作戦の計画に関して日本側の作戦参加艦長、部隊長とほぼ同程度の知識を得ていたという」(戸部良一ほか著『失敗の本質 日本軍の組織的研究』中公文庫 p78)。同書はこのことがミッドウェー作戦の決定的な敗因ではないと述べる(同書p99)が、情報戦で間違いなく日本は敗北している。

 

 たとえば昭和18年4月、ラバウル周辺の基地を視察に向かった聯合艦隊司令長官・山本五十六が、米軍機の攻撃によってあっけなく戦死してしまったのは、「暗号解読による山本搭載機の待ち伏せ」が成功した結果だったことが、明らかになっている(阿川弘之『新版 山本五十六』第14章)。

 

『山本五十六』

単行本の表紙(現在は新潮文庫、amazon)

 ただ阿川が同書で、日本の暗号がすべて解読されていたわけではないと強調しているのは、元海軍将校の阿川らしい、といえなくもない。素人がこんなことを言うとお叱りを受けそうだが、阿川の『山本五十六』『米内光政』『井上成美』といった海軍の「偉人」伝には、どこか「陸軍悪玉、海軍善玉」*という響きがあると思っていた。これはたぶん間違っていないだろう。

 *あとで触れる『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』の著者・吉田裕が、自身の退官講演で、「陸軍悪玉、海軍善玉」論というものがあることを述べている。戦後に書かれた第二次世界大戦論のなかには、海軍を善玉とするような流れがあったのは確かなようだ(「自分史の中の軍事史研究」『世界』2020年9月号)。

 

 

長崎の諫早から三鷹まで

 

 最後に武蔵野に戻る。小国民のエピソードをひとつ。
 昭和20年の春、中島飛行機武蔵野製作所に、はるばる長崎の大村飛行工廠の諫早工場から工員に交じって飛行機の部品を取りに来た学生がいた。筆者の父である。

 

 そのとき父は旧制中学の4年生だった。学徒動員により中学には行かず、空襲で大村から諫早に移ってきた飛行機工場で働いていた。あるとき、飛行機エンジンに使う「接合棒」というものが足りなくなったという。東京の中島飛行機に取りに行くしかない。しかし、すでに輸送手段がなく、人間が運ぶしかない。それくらい逼迫した状況だったようだ。人手も足りなかった。本当は学生が行くことは禁止なのだが、その部品の担当だった父が志願して、10人ほどの工員たちと一緒に東京に行くことになった。

 

 諫早から汽車に乗り、1日以上をかけて東京駅に着いた。そこから乗り換え三鷹駅へ。三鷹から工場まではトラックだったようだ。中島飛行機武蔵野製作所は19年11月から何度も空襲を受けているから、このとき工場に部品を供給する余裕があったのか疑問もある。ただ、父は長さ30センチほどの「接合棒」を「持てるだけ持って」すぐさま帰路につき、1日以上をかけて諫早に帰ったのは間違いない。このとき、父にとっては生まれて初めての東京だった。その後、三鷹近くに60年以上住むことになるとは思ってもいなかっただろう。

 

 父は現在92歳。記憶がかなりアヤシク、残念ながらこの「旅」についてのディテールは聞くことはできなかった。記憶違いもあるかもしれない。ただ、米軍の最新鋭機を迎撃する飛行機の部品を東京から長崎まで手で運んだ、という事実は笑えない「笑い話」だ。

 

 ちょっと前に『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著、中公新書、2017年) がベストセラーになった。この本は、名もない兵士たちがどのように死んだのかを具体的に描き、第2次大戦の日本人犠牲者310万人の9割は、1944年以降のものだとしている。

 戦争をそんなところまで引き延ばした者の責任は重い。

 

【関連情報】
・東久留米市歴史ライブラリー1『東久留米の戦争遺跡』を刊行しました。(東久留米市

 

杉山尚次
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