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黒目川

「書物でめぐる武蔵野」第8回 川は流れて、「新座」は「新羅」

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年5月27日

杉山尚次(編集者)

 前回、「地形」が一種のブームになっていることを書いた。その盛り上がりは2013年あたりから確かなものになったと考えられる。というのもこの年、『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹村公太郎、PHP文庫)というそのものずばりの書名をもつ本がベストセラーになっているからだ。この文庫は同著者が書いた『土地の文明』(2005年)と『幸運な文明』(2007年、両書ともPHP研究所刊)という本を再編集してなった、と記されている。つまり、「地形ブーム」という時流を読んだ著者もしくは編集者(たぶん後者)が、編集技術で見事にベストセラーをつくりあげた、ということになる。(写真は、新座市を流れる黒目川。古代の渡来人はこういう水路をさかのぼって来た?)

 

日本史の謎は「地形」で解けるか?

 

『日本史の謎は「地形」で解ける』

日本史の謎は「地形」で解ける』(竹村公太郎、PHP文庫)

 同書は「地形や気象から見る歴史は、今まで定説と言われていた歴史とは異なる」(「はじめに」)と述べ、さまざまな日本史の「通説」を覆していて面白い。〝ネタばれ〟は極力控え、カバーの惹句から拾うと「元寇の失敗の真因は『(福岡の)泥の土地』」「京都が日本の都となったのはなぜか、一方奈良はなぜ衰退したか」「なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか」等々の「謎」が地形と関連づけて解かれている。なるほどと思う。間違いなく「地形」は歴史を左右しているのは納得できる。ただ、

 

《地形と気象は動かない事実である。そのぶれない地形と気象の事象をどう解釈して、どう表現するかは各自の自由である。その解釈の根拠としてぶれない地形と気象を共有していれば、議論は拡散せず、客観的にある方向に向かっていく。》(「はじめに」)

 

 ……かどうかは疑問が残る。現在のコロナ禍を見れば、「科学的なデータ」を共有したところで、議論が一向にまとまらないのは明らかだからだ。「客観的」がいかに難しいかは、多くの歴史論争をみればわかるというもの。

 

 ともあれ、この本では、徳川幕府が江戸の川、つまり「水」をコントロールすることにどれだけ腐心してきたかが述べられている。初期の徳川幕府は、利根川を、江戸をバイパスして太平洋に流すなど大規模な土木工事を次々に実行して広大な新田を拓き、権力基盤を経済的に確実なものにしていった。さらに拡大する江戸の飲料水を確保するために玉川上水を引いたことはよく知られている。われわれが暮らす武蔵野と玉川上水の関わりは深いので、また触れる機会もあるかもしれないが、玉川上水が完成したのは1653年(三代将軍家光の時代)。家康が江戸に入ったのは1590年だから、それまで江戸の飲料水を確保するため、家康はさまざまな策を講じている。

 

『日本史の謎は「地形」で解ける』から

 

 1606年、家康は和歌山藩の浅野家に、虎ノ門に堰堤(ダム)の建設を命じた。それが今も地名として残る「溜池」となった。溜池とは飲料水ダムだったというわけである。その堰堤の姿は広重の『名所江戸百景』「虎ノ門あふひ坂」に描かれ、この本に引用されている(同書pp209-218、右上の建物は今も虎ノ門にある金刀比羅宮)。

 

『東京の空間人類学』(書影は単行本、ちくま学芸文庫あり)

東京の空間人類学』(書影は単行本、ちくま学芸文庫あり)

 このように江戸と「水」のつながりは強く、かつては権力者だけでなくひとびとの生活とも密接に関わっていた。ところが近代都市東京は水運を捨てただけでなく、「川」を邪魔ものにしていったようにみえる。その最たる例が川に蓋をする形で広がる首都高速だ。日本橋の上に被さる高速道路は地下化されるようだが、都心の川はほとんど息をとめられている。

 

「地形ブーム」はこうした流れに異をとなえるものといえる。前回ふれた中沢新一『アースダイバー』は、東京と「水」の関わりを再認識させるものだし(『ブラタモリ』も同様)、江戸の下町はヴェネツィアに匹敵するほどの「水の都」だったことを示して注目された陣内秀信『東京の空間人類学』(85年、筑摩書房)の続編が、昨年『水都 東京』(ちくま新書)として刊行されたのもこの動きのひとつだろう。

 

『水都 東京』

水都 東京』(ちくま新書)

 また、吉見俊哉『東京裏返し』(集英社新書、2020年)は「地形こそが…、東京を欧米の都市とは異なるものにしてきた最大のポイント」と述べ、地形をはじめ、その土地その土地に埋め込まれた時間の層に注目する。そして高度経済成長によって否定された路面電車の復活、高速道路の全面撤去などによって、「都市を人間のためのものに取り返す」ことを提案している。

 

〝水系史観〟の源流

 

 こうした「地形本」の〝源流〟のようなポジションにあると思われる書物がある。1978年刊の鈴木理生『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会、1989年に井上書院刊)がそれだ。この本の眼目は、なんといっても〝水系史観〟とでもいうべき視点だろう。

 

『江戸の川・東京の川』

江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会)

 江戸という都市の原型は、広義の利根川水系(利根川、荒川とその支流)の働きによって形成された、この考えが前提となっている。江戸には利根川水系のほかに多摩川水系もある。この〝流れ〟が武蔵野台地一帯の関東ローム層(水を透しやすい赤土)とその下の岩盤の間に潜りこみ、巨大な〝水タンク〟を形成している。それが湧水となって流れ出たものが石神井川や神田川といった中小河川であり、それがやがて大きい水系に合流する。井の頭池や石神井池といった武蔵野各地にある池は、そうした湧水の〝出口〟だ。

 

 中世から近世にかけて江戸を牛耳ってきた支配者たちは、たえずこれらの川をいじり、交通網を整え、商業的、あるいは軍事的に力(権力)を蓄えてきた。

 

 江戸の初代支配者と目される江戸太郎重長(12世紀)⇒関東騒乱期(1349~1564)に江戸城をつくった太田道灌⇒北条氏⇒そして家康以降の徳川政権といった江戸支配者たちの「流れ」は、水の流れと密接に連関している。水系を追っていくと、「江戸」はもちろんさまざまな歴史がみえてくる。……水系史観のゆえんである。

 

 明治維新以降の近代化のなかで河川が廃れていった過程も描かれている。水運や動力としての「水」は、明治中期までは廃れていなかったものの、近代化の進展とともに鉄道網や蒸気機関に置き換えられていった。明治政府は「湊」による水上運輸から鉄道中心の陸上運輸へと切り替える政策を進めた。

 

江戸の原型

家康入城前、江戸の原地形図 同書p69 図⓬

 治水の思想も変わった。森林を荒らさず水源地を大切にする「治山・砂防」の発想から、洪水は堤防で防ぐという発想に転換された。これは「洪水―堤防の嵩上げ」の繰り返しという悪循環を招き、「河岸の消滅」をもたらした(同書p213)。また近代的道路をつくるためには、小さな谷や川は埋められなければならなかった。そして太平洋戦争による破壊と高度成長期の汚染と開発による「川の死」。

 

 最終項目に「川の再認識」とあるが、この本が出た78年当時、東京の大小の河川はほとんど「どぶ川」同然だったと記憶している。現在のような「水」への関心は薄かった。「昭和レトロ」とはこういう時代だったということは、認識していたほうがいいだろう。

 

新羅郡=新座郡

 

 『江戸の川・東京の川』には、ひばりが丘周辺にとって興味深い記述もある。

 時代は7世紀後半にさかのぼる。この時代、ヤマト政権は大化の改新を経て律令制度を整備し、その勢力を拡大していた東国に「武蔵国」を創設した。さらには、中国=唐と高句麗、百済、新羅などの朝鮮半島の流動する政治情勢を反映して、武蔵国に渡来人を移住させ、716年に高麗郡を、758年には新羅郡を設置している。この「新羅郡」は、現在の「新座市・和光市・朝霞市・志木市」に当たる。

 

 《ヤマト政権が、当時の先進文化人であった朝鮮系渡来人を辺境「東国」の武蔵に配置した理由の一端は、「夷」ならぬ自己の持つ最精鋭部隊(渡来人)をもって「夷」(ヤマト政権とは文化の違う「東国」のひとびと)を制するといった感覚においての配置だったのであろう。》(p55、( )内は引用者注)

 

 そうした渡来系のひとびとは、太平洋づたいに「東国」武蔵に入り、荒川河口から内陸部に進出していった、と想像されている。もちろん「新羅郡=新座郡」には荒川の支流である黒目川や白子川、柳瀬川が流れているから、その水運を利用したに違いない。

 「水」を追ってきたら、思わぬ歴史に出合った。

 新羅郡の中心は和光市の「新倉」あたりかという推察もあるようだが、はっきりわかっていない。いずれにしても「新座」が、新羅人の里と関係があったことは確かだ。武蔵国に新羅郡があったということは、現在でいえば、「埼玉県に韓国市ができたと同じような位置づけ」になる(大東文化大学文学部・宮瀧交二教授の言葉*)。つまり、ひばりが丘周辺は、東アジアの古代史に直接つながっていることになる。こうした歴史は、もっと知られていいと思う。

*2018年11月24日、和光市教育委員会主催のシンポジウムにおける宮瀧氏の講演「武蔵国新羅郡誕生の歴史的背景について」より

 

 

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「書物でめぐる武蔵野」第8回 川は流れて、「新座」は「新羅」」への2件のフィードバック

  1. 駒田智久
    1

    東久留米に住む駒田です。楽しい記事をありがとうございます。このようなことを書かれる方が東久留米に居られるとは嬉しいですね!(最近は手塚治虫さんがフィーチャーされていますが。)それは兎も角、最後の辺りで「渡来系は太平洋づたいに東国に入り」と引用されています。人の話で恐縮ですが、あるいは日本海から、ということもあるのではないかと。原武史さんはイニシエ滝山団地に住まわれていたというご縁で、東久留米の活性化について10年ほど前に来市されて講演されました。その中で、市内に4社ある氷川神社に触れられ、関東の元締めは大宮の氷川神社であるが、多くは荒川沿いに分布しており、そのルーツは出雲の国の斐伊川ではないかとされていました。出雲の方々が日本海経由で南に下ってきたということかと。とすれば、氷川神社と同様、渡来系の方も同様なルートでこちらに来られてもいいのではないかとか思っている次第です。高麗郡の創設が新羅郡のそれよりも40年ほど古いということは、奥の(日本海に近い)高麗郡から東の方に展開したと考えてもいいかと。
    なお、小生のルーツは姫路の奥ですが、「駒」は「高麗」に通じていて、なお古いルーツは半島かなあと思っています。

  2. 杉山尚次
    2

    コメントいただき、ありがとうございます。励みになります。なるほど、氷川神社は出雲系と聞いておりますし、日本海経由というのは面白い説ですね。実は次回も「新座=新羅」についてふれるつもりでおりました。他の本も参照して、素人ながら考えを述べたいと思います。よろしくお願いいたします。

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