「ここに学校があってよかったと思われるように」 『自由学園一〇〇年史』刊行で高橋学園長語る
今年、創立100周年を迎えた自由学園(東久留米市学園町)が12月1日に「初めての通史」となる書籍『自由学園一〇〇年史』(自由学園出版局発行、9900円)を出版。また、年表や写真、学園新聞などの資料を集めたデジタルアーカイブ「自由学園100年+」も公開した。社会に開かれた教育を目指し、積み重ねてきた学園の歩み、さらに、地域とのかかわりを重視してきた歴史も紹介されている。刊行や地域への思いを高橋和也学園長(60)に聞いた。(写真は、1937年、当時の久留米村での初等部登校風景=自由学園資料室提供)
創立90周年の際に発足した「一〇〇年史準備委員会」のもとに資料整理を開始、徐々に通史編纂と資料公開の方向性が定まり、2019年から教職員や卒業生を中心に本格的な編纂(へんさん)作業を進めてきた。刊行となった760ページ超の“大作”を手に高橋学園長は「やっとできた。本当によくできた」と感慨を語った。
「自分の生(いのち)を経営する学びを」「社会へ開かれた学校に」―。羽仁もと子・吉一夫妻が、出版社「婦人之友社」を興し、二人の娘を育てていくなかで「新しい女子教育」を標榜、東京・雑司ヶ谷に自由学園(各種学校)を創立したのは1921年。
「雑誌社をつくり、新しい時代を女性からつくっていこうと掲げ、その熱烈な読者に支持された。学校をつくるときも、読者の家庭から集まった26人の女生徒でスタート。その後も『婦人之友』友の会の方に支えられ、この小さな学校が続いてきた、守られてきたことに感謝です」と高橋学園長。
27年に初等部(小学校)、35年に男子部(中・高等科)、39年に幼児生活団(幼稚園)、49、50年に最高学部(大学部)と次々設立し、理想の教育を推進してきた。
だが、その道のりは平坦ではなかった。とくに学園に影を落としたのは先の戦争だ。
35年に設立された男子部(7年制)で初めて1~7年の全学年がそろった記念の教育発表会が行われたのは、戦争が始まった1941年12月8日だった。
「7年生は翌月に繰り上げ卒業になり、戦争に出ていった。戦時下で、自由学園の名前を変えるよう圧力があったりもしました」
この大戦で男子部は1~4回生の卒業生84人のうち11人が戦死。女子部でも勤労動員での事故や空襲、病気などで9人が亡くなっている。
「どうやって戦争と向き合いながら、この教育を守っていけるか。創立者の苦しみは、私たちには計り知れないものがありますが、一〇〇年史では、そんな当時の人たちの息遣い、そのなかで人間が育つ教育はどうありうるかというところを丁寧に見ていった。学校として100年の歴史をきちんと形にし、次に続く人がここから学んでいける土台になれば」
また近年、「食堂が真ん中にある学校」など食と教育を密接に結びつけ、「よい社会を創る人を育てる」という方針が、日本の教育の目指す方向として注目されているが、「自由学園ではそれらを100年前からやっている。私たちがやってきたことは普遍性があり、価値がある」との思いも新たにする。ただ、「創立者が残した形でなく、目指した創造的教育の意識を引き継ぐためにはどうしたらいいか、この一〇〇年史には、原点に返って、学校改革の意味をもう一度問い直す意味もあった」。
そのひとつが、同学園で2024年に行われる「中高男女共学」。長く男女別学だった中・高等科を共学化する。先進的な同学園にしては遅すぎる印象もあるが、「偉大な創立者がつくったものを大切に守るという発想もあったのだと思う。ただ、目指したものは何かということ。次の時代のため、子供の教育をどうするか。勇気をもって新たなものに立ち向かっていきたい」と前を向く。
一方、自由学園の100年は地域とのかかわりの歴史でもある。
1925年に東京府北多摩郡久留米村に10万坪(約33.1ヘクタール)の土地を購入。うち7.5万坪を住宅地、2.5万坪(のちに3万坪に拡張)を学校用地とし、学校と町を一体的に形成する「南沢学園町」構想によるものだった。羽仁夫妻は「成城学園」を参考にしたともいわれるが、当初は学校全体の移転ではなく、自然豊かな環境での運動場の整備や農場造り、小学校の新設など「自由学園の拡張」と「自由学園を中心とした新しい町の形成」を目指したという。
デジタルアーカイブでも見られる「自由学園を中心とする新しい住宅分譲地規定」のリーフレットでは、「郊外に住宅地を欲しいと思っておいでになる方々へ」として、「停車場に近い松林の中の高台で、水と空気のよい清らかな処女地」などと紹介。計画図や交通、設備の案内、「理想郷の建設」の項では、「この住宅地が、教養あり気品ある家々によって、ほんとうに純潔で質実で住み心地のよい町となることが出来るように、十分の尽力を致します」とも記している。
『自由学園一〇〇年史』によれば、土地分譲は1~4期に分けて36年まで行われ、208区画を分譲。購入者には自由学園に子供を通わせる家庭などもあった。
「徐々に学園の周りに家が増えていって、羽仁夫妻も学校用地の真ん中に自分たちの家を建てた。小学校、女子部が引っ越してきて、男子部がここで設立。町をつくる意識が強くあって、当時お医者さんが周辺にいなかったので、診療所をつくり、村の人にも利用していただいて、地域に受け入れてもらうようにしたことも」
この診療所は、30年に同学園が始めた社会活動(隣保事業)「農村セットルメント(セツルメント)」の一環で、こうしたセットルメント活動や、26年からは毎年運動会を開き、村の人々も招待するなど、熱心に交流を図ったりもした。
散歩好きだった羽仁もと子は周辺をよく歩き、高橋学園長は「今でも『羽仁のおばあちゃんに会った』と記憶している人たちがいます。教員たちも、この町には私たちが知らないことを知っている方々がいて、そういう人たちに受け入れられ、守られてきていると感じているんです」。
『一〇〇年史』は、「第Ⅰ部 総論」「第Ⅱ部 各部の教育」「第Ⅲ部 学校から社会へ」などから構成され、随所で地域とのかかわりがふれられている。第Ⅲ部の「地元東久留米との近年の交流」の章によれば、その後、東久留米市とは自然環境を媒介としたつながりが多く、東久留米の野鳥、野草や、向山緑地、立野川などの調査・研究・保全活動に関する連携、環境フェスティバルへも参加。また、地域に対しては学園を開放する南沢フェスティバル開催、「近隣の人々に自由学園を発信する・施設を利用していただく」として、旧学生寮を改築し、カフェや貸室、未就学児親子に開放されたスペースを擁する「自由学園しののめ茶寮」オープン、防災分野でも災害発生時の地域での協働対応などを重視している。
2017年に学園を開放して開催した『おさなご発見 U6ひろば』のイベントでは2日間で約5200人が来場した。
「学校にあんなにベビーカーが入ったことはなかった。安心して子供たちを遊ばせる場所がないという地域のお父さん、お母さんたち、0歳からの幼児向けの企画内容に関心を持った方がたくさん来られて。これからもいろいろな形で学校を社会に開いていきたい。ここに学校があってよかった、と思っていただけるように」
◇
創立100周年記念事業では、12月6日にデジタルアーカイブ「自由学園100年+」も公開。「年表から見る」「地図から見る」「学園新聞から見る」「写真から見る」のアプローチができ、数々の貴重な文献、資料、写真を見ることができる。
(倉野武)
【関連情報】
・デジタルアーカイブ「自由学園100年+」サイト(自由学園)
・自由学園一〇〇年史の詳細サイト(自由学園)
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