ひばりテラス118

書物でめぐる武蔵野 第23回 『孤独のグルメ』がひばりが丘団地にやってきた

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2022年9月22日

 『孤独のグルメ』をご存知だろうか。松重豊主演、テレビ東京系のドラマで、10月7日から「ドラマ24」枠(つまり深夜枠)で Season10 が始まることが発表された。2012年スタートだから、長寿ドラマといえる。「おじさんがご飯を食べているだけの番組」(2018年、このドラマが韓国で最も人気のあるドラマとして表彰された際の松重豊の言葉)が、今年で10周年というのは興味深い現象だ。

 

 ドラマの原作となっているのが、マンガ『孤独のグルメ』である。原作は久住昌之、マンガは2017年に亡くなった谷口ジロー。雑誌の初出は1994年だから、かなり前の作品だ。新装版(扶桑社、2008年)を読んだが、いま読んでも違和感がない。移り変わりの激しい外食産業を描いているのに、なにか考えるに値することがここらあたりに潜んでいそうだ。

 

主人公はひとりごちる

 

『孤独のグルメ』(amazon

 作品の基本構造はマンガもドラマも一緒。中年男性(マンガでは輸入雑貨商の「俺」、ドラマでは松重豊演じる「井之頭五郎」)が商用などで訪れたまちで、地元の人が〝普段使い〟する店と遭遇する。その店では何が旨いのか、喰い合わせはどうか等々について、独り思いめぐらせながらあれこれ注文し(「注文しすぎだろ」と思うことが多いが、平気で完食)、それを目一杯堪能するというのがパターンである。

 武蔵野地区でいうと、マンガ版第11話に「練馬区石神井公園」がでてくる。日曜日の午後、この公園に来てしまった主人公は、公演に隣接する豪邸を眺めたりしながら(そう、豪邸は石神井公園名物だと思う)、公園によくある「休憩所」に逢着する。おでんを頼み、カレーライスではなく、グリーンピースがたくさんのっているようなカレー丼を頼み、このようにひとりごちる。《こういうのなかったなぁ…最近/でもなんでだろう…このトロンとした雰囲気/ずっとここにいたような居心地の良さ/子供の頃 夏休みに田舎のおばあちゃんちで食べたお昼かな》(p111、112)

 食後にウトウトしていると、「寝ないでください」という店の張り紙(公園で歩き疲れて寝ころぶ人が多いのだろう)。そういうオチがあり、さらに、帰りのバスでまたもうたた寝する主人公、というエンディング。オジサンは昼間すぐ眠くなるのだ。オジサンあるあるである(店で見かけたお母さんのオシリへの視線も)。

 じつをいうと、この原作者である久住昌之は三鷹市の出身、筆者と同い年ということがあり、その意味でも興味深い「あるある」があった。上の作品で食事の前に自販機からジュースを買うのだが、その銘柄が「チェリオ」なのである。主人公は「へぇ~、懐かしいな、まだ売っていたのか」「わざとらしいメロン味!」とつぶやく。そうなのだ。小学生だった筆者は、このチェリオのオレンジが「プラモデルの味がする」と言って、唯一それを売っていた隣町(新座)の自販機までわざわざ出かけて飲んだことがあった。もちろんプラモデルを食べたことはないし、このヘンな味にはすぐに飽きたが。

 

「意味無く歩く」ことの楽しみ

 

 つい最近、ドラマ『孤独のグルメ』が、われらが地元ひばりが丘にやってきた。Season8の1回。埼玉県新座市の肉汁うどん屋に寄った後、主人公はバスに乗ってひばりが丘団地に到着。ホントは1回乗り換えなければならないのに直通、車中オッサンはうたた寝。ま、そんなことはどうでもいい。かつてひばりが丘団地の2階建て住居(この団地は4階建てだけではなく、2階建てもあった)をこぎれいにリノベーション、コミュニティ・スペースなどにした「ひばりテラス118」を訪れ、そこのカフェで「カステラパンケーキ」なる名物で「小腹を満たす」という内容だった。例によって観ているだけで腹一杯になった。

 

ひばりテラス118

「ひばりテラス118」

 この名物スイーツ目当てに都内からも来る人もいるといい、店員が「わざわざ遠いところ」を強調しているのが、ドラマなのに気になった。おまけに最後にこんなセリフを主人公に言わせている。

 「さてと、東京に戻るか。あ、ここも東京だった」

 たしかに、「ひばりが丘」は東京らしからぬ東京なのである(この連載でひばりが丘について正面から取り上げていないことに思い至ったが、それはまた、近いうちに)。

 

花屋

「ひばりテラス118」に併設されている花屋

 

 という具合に、『孤独のグルメ』はいわゆるグルメリポートではないし、「B級グルメ」とか「町中華」といった小賢しいトレンドとかは関係ない。テレビは松重豊の演技力が大きいけれど、テレビもマンガも「あ、こういうひとりメシもいいよな」と思わせてくれる。だから、十年一日の如きの店で、オッサンがメシ食っているだけでドラマが成立している。本当は作為がなければ成り立たないのに「無作為」にみえるのがいい。

 NHKのドキュメント番組『72時間』というのがある。ひとつの場所を3日間定点観測し、そこに集う人びとの姿を、インタビューもまじえながらひたすら映した番組である。「うどんの自販機」をめぐる回があった。味付けは自動ゆえ、たいして旨くないであろう自販機の「うどん」をその周りで食す人びとには、それぞれの事情があり、大袈裟にいえば人生もあり、そこはかとない悲哀も伝わってくる。この作品の「無作為」さと『孤独のグルメ』のそれは、どこか通底するものがあると思っている。

書影

「散歩もの」(amazon)(クリックで拡大)

 久住昌之作、谷口ジロー画の『散歩もの』という『孤独のグルメ』の姉妹編といえる作品がある(00年に連載開始、06年単行本、09年扶桑社文庫)。『孤独のグルメ』から食事を抜いた散歩マンガだ。その「あとがきにかえて」に、『散歩もの』の「きめごと」が載っている。

 ① 調べない ➁道草を食う ③ダンドらない とある。

《主人公は散歩を「意味無く歩くことの楽しみ」と考えている。/だからボクもそうして歩くことによって、実際に予期せぬことが起こるのを、毎回のマンガの核にしたいと考えた。》文庫p88

 二つの作品をごっちゃにしてはいけないが、この「無作為」の作為=演出は『孤独のグルメ』にも共通している。このへんに、この作品がジワジワと浸透していたった秘密があるのだろう。

 このような〝散歩〟のやり方は、まちを再発見させるといえないだろうか。それはやがてはまちを活性化させるのではないか。そうとでも言わないと、われわれが暮らす「郊外」のまちは、ますます廃れてしまうのではないか、と思ってしまうのである。

 

宮台真司の社会システム論

 

書影

『経営リーダーのための社会システム論(amazon

 最近、郊外論としても読める変わったタイトルの本に出合った。宮台真司・野島智義の『経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来』(光文社、2022年)である。宮台は風俗現象から権力論まで、ひじょうに広い領域を分厚くカバーする社会学者、野島は経営学者でMBAを授与する大学院大学「至善館」の理事長・学長。この本は「至善館」の講義を再現したものだという。

 その内容だが、現在の日本は「社会の底が抜けてしまった」状態だという認識を前提にしている。社会は「安全・快適・便利」をもたらしてくれるが、多く人が「生きづらさ」を感じている。経済的格差は広がり、ヘイトスピーチが横行し、なぜそういうことをするのかとても理解できない凶悪な事件が発生する。社会的な倫理が壊れてしまっている、といわざるをえない。

 なぜそうなったのか。社会は行政や企業の論理、テクノロジーなどで動く「システム世界」と日常的な身の周りの「生活世界」で構成されている*。戦後の日本社会は、この「システム世界」が「生活世界」を侵食し、「システム世界」が全域化していく過程であるととらえられている。

 実際、現在、スマホやPCなしの生活が想像できないことからもわかるように、われわれは好むと好まざるとにかかわらず「システム」なしには生きられない。「システム」への過度な依存がいまも進んでいるといえるだろう。

 その結果、共同体は崩れ、「われわれ意識」は稀薄化した。「われわれ」どころか「個人の主体性」もあやうい。システムの中では、だれでも取り換え可能な存在になってしまうからだ。人びとの感情も劣化する。損得勘定を超えた倫理に関心をもたない傾向が進む。相互に監視する体制もできている。当然、民主的な政治は機能不全をきたす。

 *システム世界/生活世界というのは、ユルゲン・ハーバーマスの用語とのこと(p83)。よく考えてみると、「システム」と「生活」を分けることはできないのでは、という疑問もあるし、学問的な論議もあるようだが、いずれにせよ「システム」の全域化の意味はよくわかる。
 また、「システム」と「生活」を、二項対立として考えないことは、この本でも強調されている。

 

郊外化

 

 このようにこの本の「底の抜けた」社会の状況とその分析は、極めて説得的である。そして、戦後日本社会の「汎システム化」の過程を「郊外化」という言葉で説明しているところが、興味深い。さきほど、郊外論として読めるといったのは、この意味だ。

 「郊外化」は3つの段階に分かれるという。
 第1段階は60年代の「団地」化 ⇒ 地域の空洞化。
 第2段階は80年代の「コンビニ」化 ⇒ 家族の空洞化。
 第3段階は90年代後半からの「ネット」化 ⇒ 人間関係の空洞化、匿名化、対面の減少、  性愛の損得勘定化。

 誤解してはならないのは、本書でも強調しているように、「団地」「コンビニ」「ネット」が悪いといっているわけではない、という点である。こういう議論では、往々にしてなにかを「悪者」にして問題を単純化することがよくある。「ネット」をやめれば(やめられないけど)人間関係は豊かになるわけではない。にもかかわらず、ネットに代表される利便性はニセモノであり人間の欲望に基づいたものだから、これを抑制して、人間本来のあり方に立ち返るべきだ、という考え方をしばしば見受ける。そういう論理はダメだ、ということだ。

 システムに一度取り込まれると、そこから抜けることはできない。それをこの本は「構造的問題」と呼んでいる。だから社会をコントロールすることは容易ではない、というかできないのではないか。いろいろな立場で社会を変革しようとする論理があるが、イージーに「変えられる」ような意見はマユツバである。

 

団地の「逆襲」?

 

 それにしても、日本社会が劣化する過程がなぜ「郊外」化なのだろう。システムの全域化をあらわすキーワードとして「マクドナルド化」「ディズニーランド化」という概念も挙げられているが、「郊外」は高度成長期から現在まで貫かれているキーワードだ。

 素直に考えて、都市にひもづけられた土地である「郊外」には、消費資本主義の主役たる多くの大衆が住んでいるから、ここに社会的な問題が集中的にあらわれている、ということになるだろうか。これまでも何回か取り上げた殺伐とした「郊外」と通底する。

 日本中どこに行っても、同じようなまちが広がっているという薄っぺらい郊外像は、そのまま日本社会の姿でもある。この考えになんの異論もない。

 異論はないけれど、マイナスのレッテルを貼られたかたちの「団地」とか「郊外」としては、このままでいいわけではない。

 

ひばりが丘団地

ひばりが丘団地

現在の「ひばりが丘団地」周辺。かつての団地=画一的というイメージはない

 

 たとえば高度成長期の郊外化の象徴のような「ひばりが丘団地」(当時の皇太子夫妻が1960年に訪れ、団地に「お墨付き」を与えた)は、経年による建て替えという困難を乗り越える際に〝生き返り〟の策を講じたようだ。そのひとつが、先の『孤独のグルメ』で紹介された場所だったりするわけで、それは地域の空洞化をなんとかしようとする試みに見える。

 社会の「郊外化」に抗するには、こうした地道な実践しかないのかもしれない。
 次回も「郊外化」について考えます。

 *連載のバックナンバーはこちら⇒

 

 

杉山尚次
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書物でめぐる武蔵野 第23回 『孤独のグルメ』がひばりが丘団地にやってきた」への2件のフィードバック

  1. えりぐちひろこ
    1

    孤独のグルメが好きですし、変わりゆく街の風景にも興味深いものが有ります。

  2. 杉山尚次
    2

    コメント、ありがとうございます。はげみになります。

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