北多摩戦後クロニクル 第7回
1948年 小平霊園が開園 時代を映すお墓のスタイル

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年2月14日

 1948(昭和23)年5月、東京都立小平霊園が開園した。小平霊園は8つの都立霊園(青山、雑司ケ谷、谷中、染井、多磨、八柱、小平、八王子)のうち7番目、戦後初めてできた比較的新しい墓所だった。宗旨宗派を問わず、さまざまな形態のお墓がそろった公園型の霊園である。

 

アカマツが美しい小平霊園

 

「武蔵野霊園」という代案

 

 開園した当時、辺り一帯は雑木林と畑が広がり、周辺の農家の人々がトロッコを使って整地作業に携わった。現在、敷地は東村山市、小平市、東久留米市にまたがる約65万平方メートル(東京ドーム14個分)、4万区画に拡大し、そのうち半分以上が東村山市に属する。しかし開園当初の区画はほとんど小平エリアで、西武新宿線小平駅から徒歩数分の位置にあったため「小平霊園」と名付けられた。

 当時、世間は「小平」の2文字に恐怖と嫌悪を伴う悪印象を持っていた。1945年から46年にかけて都内を中心に発生した7人の女性に対する連続強姦殺人事件「小平事件」が人々の脳裏に焼き付いていたからだ。小平は犯人の名字だった。「霊園名を変えたほうがいいのでは」という議論が浮上し、「武蔵野霊園」という代案も出た。しかし今や「小平」と聞くと、まず「霊園」を思い浮かべるほど両者は分かちがたい関係になった。

 

1956年当時の小平霊園

畑と雑木林に囲まれた1956年当時の小平霊園。(『開園50周年を迎えて』より)

 

 広大な敷地の半分には武蔵野の風土を残した樹林や緑地が広がる。お彼岸には1日数万人の墓参者が訪れ、ケヤキや桜、アカマツが並ぶ園路は散歩や花見のスポットとして市民から親しまれている。

 かつては霊園のそばに建つ多摩済生病院から「病院から墓地が見えるのは患者の健康に良くない」と申し入れられたこともあったが、環境やデザインに配慮した園内は、今では人々の散歩コースになっている。

 霊園内の一角、新青梅街道沿いの雑木林には「さいかち窪」と呼ばれる直径100メートル余りの窪地がある。荒川水系の黒目川の源流域になっており、普段は枯れているが、雨の続いた後などには湧き水が出て沼地になる。

 

小平霊園

桜の季節には園内で花見をする姿も

 

供養は「家」から個人に

 

 戦後に開園した霊園だけに昔ながらの墓石だけでなく、時代の流れに応じて新しい埋葬のスタイルを取り込んできた。霊園の歴史をたどると、時代と社会の変化がそこに映し出されていることがわかる。

 多摩霊園、八柱霊園に次いで郊外に位置する第3の公園墓地として開園した背景には、東京の急速な人口膨張がある。戦前の約730万人から1945年には380万人弱まで減った東京の人口は55年までにほぼ倍増し、63年には1千万人を超した。

 1961年、墓石を画一化した「芝生墓地」を都立霊園で初めて開設した理由の一つに「墓地形態においても戦後の民主化に通ずる公平の原則、個人間の格差是正を実現する」(小平霊園管理事務所『開園50周年を迎えて』)とした。墓域も比較的均一・平等に区画され、整然と墓石が配置された。墓域や墓石の形態にも戦後民主主義の光が差し込んだのだ。

 

芝生墓地

整然と並ぶ芝生墓地には小説家・伊藤整(1905〜1969年)の墓もある

 

 91年、さらに板状の墓石が壁に沿って並ぶ「壁墓地」を初めて本格導入して注目を集めた。場所を取らず、デザインが統一されているため比較的安く建てられる。99年には一つの墓に多くの遺骨を埋葬する「合葬式墓地」の供用を始めた。

 核家族化、少子高齢化、未婚率の増加によって、お墓の承継が難しくなった時代。ライフスタイルと価値観の変化によって、人々は「家」を象徴するお墓よりも個人単位の身軽なお墓を望むようになっている。それに伴って墓の簡素化、効率化、合理化が進む。

 自然志向を背景に2012年には都立霊園としては初めてとなる共同埋葬の「樹林墓地」、2014年に個別埋葬の「樹木墓地」を設けた。抽選倍率を見ると、樹林墓地のほうが圧倒的に人気がある。承継が要らず、お金のかからない供養の仕方が求められているようだ。

 

小平霊園

人気の樹林墓地

 

作家や詩人が眠る

 

 霊園には数多くの著名人が眠る。なかでも作家や詩人の墓が目立つ。民芸運動を提唱した柳宗悦(1889〜1961年)。「七つの子」などの童謡を残した詩人、野口雨情(1882〜1945年)。「日本児童文学の父」と呼ばれた小川未明(1882〜1961年)。小説『二十四の瞳』を著した壺井栄(1899〜1967年)。ベストセラー『複合汚染』『恍惚の人』を世に問うた有吉佐和子(1931〜1984年)。

 反体制派の政治家や進歩派文化人の墓も目立つ。革新勢力が強かった北多摩地区の土地柄と関係あるかどうかはわからないが、全国水平社創設にかかわった佐野学(1892〜1953年)、戦後の日本共産党を指導した宮本顕治(1908〜2007年)。その妻でプロレタリア文学の第一人者だった宮本百合子(1899〜1951年)、プロレタリア演劇を主導した劇作家の久保栄(1900〜1958年)、戦後リベラルを代表する評論家の加藤周一(1919〜2008年)。反差別、反戦運動に身を投じた行動派の僧侶を父に持つ希代のコメディアン、植木等(1926〜2007年)もここに眠っている。

 西園寺公望、髙橋是清、大平正芳、東郷平八郎、山本五十六、山下奉文など政治家や官僚、軍人が多く眠る多磨霊園と比べると対象的とも言える。

 墓石に名字だけが刻まれたもの、洗礼名や墓碑銘が記されたもの、句碑やオブジェが立っているもの、それぞれのお墓からは故人の生前の姿や遺族の思い、時代背景をうかがい知ることができる。
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・小平霊園管理事務所『開園50周年を迎えて』
・東京都小平霊園案内図・著名人墓地案内

 

 

片岡義博
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