瞽女唄に魅せられて 越後の公演で萱森直子さん、小関敦子さんと出会う

投稿者: カテゴリー: 文化 オン 2023年4月29日

 西東京市・下保谷の旧高橋家母屋で3月初め、地域講座『瞽女唄が聞こえる』が開かれました。講師・演者の小関敦子さんはオリジナル曲を交えて瞽女唄を披露し、多くの人たちに深い印象を残しました。新潟県生まれで瞽女唄の連続講座を聞き続けてきた西東京市在住の増田弘邦さんが講座の経緯や背景、演者小関さんのインタビューを通して師事した萱森直子さんの活動などを報告します。(編集部)

 

公民館講座開催の経緯

 

 3月2日、保谷駅前公民館主催の地域講座『瞽女唄が聞こえる』が保谷駅北口の旧高橋家母屋で開かれた。午前と午後の2回、3年連続の人気講座である。

 

瞽女唄

演奏する小関敦子さん(旧高橋家母屋)

 

 講師・演者は小関敦子さん。最後の越後長岡瞽女小林ハルさん(2005年4月25日、105歳で他界)の最後の弟子だった萱森直子さんに師事し、萱森さん主催の「越後ごぜ唄グループ『さずきもん』」の一員として活動している。

『瞽女-盲目の旅芸人』

斎藤真一著『瞽女物語』の書影

 この講座が開かれる経緯については、2月7日のひばりタイムスで紹介されている。

 西東京市の公民館職員松永尚江さんが、2009年に吉祥寺美術館で「斎藤真一展 瞽女と哀愁の旅路」を見に行き、会場で小林ハルさんの瞽女唄が流れたいたことに感動し、その感動を多くの人たちと分かち合いたいと2018年2月に田無公民館で萱森直子さんを招いて「瞽女唄の会」を開いたのがはじめだった。2020年から下保谷の高橋家母屋を会場に、講師に小関敦子さんを迎えて『瞽女唄が聞こえる』が開かれることになった。

 

私と瞽女唄の出会い

 

 私は、母の実家である越後高田の農家で生まれ、昭和30年代、水田のあぜ道に刈り取った稲を干すために利用するハンノキが並ぶ風景を記憶している。斎藤真一の瞽女を描いた絵は、ハンノキが並ぶ頸城(くびき)平野の水田を背景に瞽女さんが3人並んで歩く風景が描かれていて、私の記憶のなかの風景を想いおこさせる。ハンノキの並木は、その後の耕地整理と農業機械導入により、今は見ることができなくなってしまった。斎藤真一著『瞽女物語』(講談社文庫1977年)には、頸城平野の真紅の夕日の中、ハンノキの並ぶあぜ道を歩く瞽女さんや、真っ白な雪の平原を三人で歩く瞽女さんの絵が収められています。

 

松代の雲海

松代の雲海(2018.3.24)

松代の雲海

松代の雲海(2018.3.24)

 

 斎藤真一の絵を東京駅のステーションギャラリーで見たことはあったが、瞽女唄を直に聴くことはなかった。萱森さんの瞽女唄を聴いて「これが瞽女唄なんだ」と感動した。萱森さんから、ひと月後の3月24日新潟県十日町市のまつだい郷土資料館で公演があると聞き、高田の親戚を訪ねてから、深い雪の残る峠を越えて松代の雲海という宿に泊まり、翌朝、宿の名前のような見事な雲海を眺めてから、会場にむかった。この時の萱森さんの公演で共演されたのが小関敦子さんだった。

 

松代公演後の記念写真

右から筆者の増田弘邦さん、小関敦子さん、萱森直子さん、増田惠津子さん(2018.3.24)

 

参加者の感想から

 

 3月2日の小関さんの熱演は、西東京市WEB>学ぶ・楽しむ>公民館で、動画がアップされているのでじっくり見て聴いて堪能していただきたい。また、公民館のHPには、当日の参加者の感想が掲載されている。

 「とてもすばらしく“生きていてよかった”」「また機会がありましたら是非!!瞽女について勉強してみます」「初体験でした。大変感動しました。興味を持ちましたので、図書館で調べ、また出逢いたいと思っています」「瞽女唄初めて聞かせていただきました。文化の伝承というばかりでなく、新しい世界を切り開いている小関敦子さんすばらしいですね。オリジナル曲すごく良かったです。貴重な機会をありがとうございました」「いろいろなレパートリーがあり、娯楽だったことが良くわかった。パワフルな歌声にも驚きました。またの機会を楽しみにしています」などなど、感動し興味を持ったという感想が多かった。

 

小関敦子さんのオリジナル曲

 

 今回、小関さんははじめて自作のオリジナル曲を冒頭に唄った。小関さんから歌詞を紹介する許可をいただいたので紹介する。

 

「すたれ節」

 進歩進化と 言うけれど
 流行り廃りと 言うけれど
 生まれてこの方 私は私
 時代遅れで 何が悪い

 知識常識 求められ
 間違い勘違い 指摘され
 聞いた通りに 覚えたものが
 ウィキと違って 何が悪い

 古い古いと 言うけれど
 生まれる前の 先人の
 聞いたことない 唄なれば
 古いも新しいも ありゃしない

 海の声が 聞こえるか
 大地のうねりを 感じるか
 星の見えない 都会の下で
 電波の力で 生きている

 進歩進化と 言うけれど
 流行り廃りと 言うけれど
 生まれる前の 先人が
 いなけりゃ今の 私もない

 

萱森直子さんとの出会い

 

 小関さんは、萱森直子さんとの出会い、オリジナル曲創作に至る経緯を次のように語っている。

 萱森先生と初めて出会ったのは、2010年2月に世田谷区東松原にある「ブロ-ダーハウス」という劇場で毎年開催されていた先生の瞽女唄がきっかけです。(12年続いた公演ですが、先生のご病気をきっかけに2019年で最終回を迎えました。)

 当時、私は趣味で津軽三味線を習っていたのですが、若者たちの超絶技巧的な演奏についていけず、自分の演奏に悩むようになっていて、原点回帰のつもりで古い民謡のCDを聴いりする中で、瞽女の存在に興味を持って調べていた所に、初めて聴いた萱森先生の瞽女唄は、土臭く素朴で飾り気がなくまっすぐで、正に私が求めていたものでした。また、過去の名もない瞽女さんの存在を大事にされていること、作為的な演出をせずに淡々と唄うという、萱森先生の瞽女唄に対する向き合い方にも惚れ込み、いつかやってみたいという思いを募らせました。

 それから程なく、当時私が所属していた劇団の演出家から「三味線を弾く女性の役を探してみたら」と提案を受け、瞽女を主題とした作品を作ることになり、2011年2月に劇団員数名で押しかけ、萱森先生に指導をお願いしたのです。それから1年ぐらい、月一のペースで新潟に通い、演劇公演のお稽古が終わった後も私一人で通い続けました。

 

『さずきもんたちの唄』

『さずきもんたちの唄』のカバー

 

 先生の著書『さずきもんたちの唄 最後の弟子が語る瞽女・小林ハル』(2021年10月、左右社)を読んでもらうと感じられるかも知れませんが、萱森先生は瞽女唄に対して信念と確信を持って向き合っておられて、そこが魅力で、またお稽古を続けていく上での安心感でもありました。私はお稽古がうまくいかないと泣いてしまうような面倒くさい生徒だったのですが、そんな私のことも見守ってくださるようなお人柄です。

 私は弟子というよりはただの萱森ファンで、先生の公演があれば、出来る限り追いかけて、行った先で一緒に唄わせて頂く機会をもらったり、先生のところに来た演奏のお仕事から、私が行けそうなものを紹介してもらったりするようになりました。実は松代まつだいの公演(2018年3月24日)もお客さんとして聴きに行くつもりだったのですが、それならばということで、ゲスト出演させてもらったのです。

 

共演する萱森さんと小関さん

まつだい郷土資料館で共演する萱森さんと小関さん(2018.3.24)

 

 それと並行して、個人では2016年頃からカフェなどで開催されるイベントなどに参加して人前で唄うという経験を積むようにしていました。参加の皆さんは素人なのに達者な人たちが多く、オリジナル曲を作るような方々も沢山いて、とても刺激を受けました。こんなレベルの高い中で演奏者としてやっていこうと思ったら「瞽女唄」というブランドにぶら下がっているだけでは足りない。私独自のものを開拓するべきではないかと考えるようになりました。そんな折りに訪れたのが、2019年3月の単独初公演のお話です。そこで、オリジナル曲を作ったり、CDを作って販売しようと思って準備をする中で出来たのが「すたれ節」です。

 「すたれ節」は、個人で演奏活動を行う中で、瞽女唄を珍しがって好意的に受け止めてくださる方が多い中、「古いものを古いままやっていても続かないよ」というご意見を頂くこともあり、唄のはやし言葉の意味を問われて固まってしまったこともあり、そんな事を萱森先生に相談する中で感じたことをもとに、おもに瞽女唄への想いを歌詞にしたものです。

 

萱森直子さんの著書から

 

 萱森さんの『さずきもんたちの唄 最後の弟子が語る瞽女・小林ハル』は、三味線と唄で人生を切り開いた盲目の旅芸人小林ハルさんの生涯と瞽女唄の継承をめぐる交流を語り、「小林ハルという人を端的に言葉で表すとするなら、『超一流の、筋金入りの誇り高き芸人』というほかありません。唄にどう向き合うかという精神的な面ばかりでなく、それに裏打ちされた技術とが両輪そろった『超一流』でした。」と高く評している。そして、「瞽女は女性にしかなれない職業ですが、かつては女性の社会的地位も低く、家庭でも嫁は賃金なしの労働力のように扱われていた場合も少なくありませんでした。こうした差別・不公平は女性だけでなく、跡取りとなる長男とそうではない次男や三男の間にもありました。『生まれ』による明らかな差別がそこにあったのです。」と差別の歴史についての指摘がされていて、差別と不条理の歴史をきちんと理解しようとすることも忘れてはいない。民衆の差別と不条理の歴史を解明するための大切な書となっている。

 瞽女唄の代表曲「祭文松坂」をはじめとする唄の音源をYouTubeで聴くことができるように配慮されている。「さずきもん」の意味は本書を読んで理解していただきたい。瞽女の歴史と瞽女唄の歌詞・採譜については、ジェラルド・グローマー著『瞽女うた』(岩波新書2014年)を参照されたい。
(増田弘邦)(写真は筆者提供)

 

【関連情報】
・瞽女唄が聞こえる(西東京市Web
・動画公開中 瞽女唄が聞こえる 西東京市保谷駅前公民館主催地域講座(西東京市Web

 

増田弘邦さん

増田弘邦さん

【筆者略歴】
増田弘邦(ますだ・ひろくに)
 1944(昭和19)年新潟県生まれ。1954(昭和29)年以来、田無北原在住。谷戸小3回生、田無二中2回生。はじめに住んだ都営住宅の周囲は麦畑、谷戸新道は砂利道でした。都立高校教員後、東大農場ボランティア。現在、法政大学沖縄文化研究所研究員。

 

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