生涯に800体以上のロボットを作り「ロボット博士」と呼ばれた相澤次郎さん(1903〜1996年)が1952(昭和27)年、保谷町(現西東京市)に財団法人日本児童文化研究所を設立した。研究所から生み出された四角顔に丸い目の“相澤ロボット”は、1970年の大阪万博をはじめ科学展やイベントで人気を集め、草創期のロボットのイメージを決定づけるとともに昭和の子どもたちに未来への夢を与えた。

 1950(昭和25)年、現在の「西武園ゆうえんち」の前身「東村山文化園」がオープンした。西武鉄道による観光、娯楽の一大拠点として、その後の時代の変化の波にもまれつつ進化を続けている。

 1949(昭和24)年、田無町(現西東京市)で盆踊りに伴う仮装大会が始まった。意匠を凝らした大掛かりな山車(だし)とさまざまなキャラクターに扮した住民が青梅街道をねり歩くイベントは「関東一の仮装大会」として新聞、ラジオ、テレビで大きく報じられた。大会は年を追って盛大になり、毎年、関東一円から見物客が押し寄せる真夏の風物詩になった。

 1948(昭和23)年5月、東京都立小平霊園が開園した。小平霊園は8つの都立霊園(青山、雑司ケ谷、谷中、染井、多磨、八柱、小平、八王子)のうち7番目、戦後初めてできた比較的新しい墓所だった。宗旨宗派を問わず、さまざまな形態のお墓がそろった公園型の霊園である。

 終戦直後、街には戦災孤児があふれていた。救済の手を差し伸べたのはほとんどが民間施設、なかでもキリスト教関係者が果たした役割は大きかった。  東京サレジオ学園は1946(昭和21)年、サレジオ修道会の神父が東京都練馬区の旧陸軍成増飛行場跡の兵舎を借りて園児3人とともに始まった。兵舎は米軍住宅地になるため、47年に現在の小平市上水南町にあった旧陸軍技術研究所跡地の払い下げを受けて移転。翌年には児童福祉法の施行により養護施設として認可を受けた。小中学校の設置も認可され、広大な敷地に子どもたちの生活の世話とともに学校教育も行う養護施設が誕生した。