1974(昭和49)年、小平市立鈴木小学校の建設現場から後期旧石器時代の大遺跡が見つかった。戦前まで日本には旧石器遺跡はないと考えられていたが1946年、群馬県で岩宿遺跡が発見されて以来全国で発掘が相次ぎ、そのうち鈴木遺跡は総面積23万平方メートルに及ぶ規模の大きさ、遺跡が示す年代の長さ、石器の豊富さなどで有数とされる。

 

1.地域住民3000人が楽しんだ「むさとくフェスティバル」

 

 6月4日(日)に、武蔵野徳洲会病院が開催した第3回「むさとくフェスティバル」に行ってきた。チラシなどでお祭りが行われるとは、知っていたものの、こんなに大掛かりなお祭りとは知らなかった。2018年、2019年と開催され、コロナ禍で4年振りの開催とのこと。第1回から、かなりの人が集まっていたようだが、今回も、晴天に恵まれ、3000人くらいは来場したと推定される。

 1973(昭和48)年4月1日、JR武蔵野線が府中本町駅(東京都府中市)―新松戸駅(千葉県松戸市)間で運行開始された。東京・多摩地域と埼玉県へ南北に貫く鉄道はそれまでに無く、以前からの夢が実現した形だった。しかし当初は貨物輸送が主で、北多摩沿線住民からすれば西武鉄道との接続が不便な上、旅客用電車の本数も少なく恩恵は今一つだった。その後、首都圏の拡大に伴って鉄道インフラとしての重要性は急速に増し、本数や駅数の増加、他線との直通運転など利用客向けのサービスも徐々に向上して、今では地域にとってなくてはならぬ生活路線となった。

 1970(昭和45)年11月、北多摩郡最後の町である村山町が市制施行・改称し、武蔵村山市となった。この結果、属する町がなくなった「北多摩郡」は、1878(明治11)年以来の歴史を閉じた。「さよなら北多摩郡」というイベントがあったわけではないし、もう半世紀以上前の出来事である。そもそも「北多摩郡」という言葉にピンとくる人はどれくらいいるだろうか。しかし、「区じゃないほうの東京」の消滅から誕生へとさかのぼると、この地域の意外な歴史が見えてくる。

 6月から9月にかけて実が熟し、摘み取りの季節を迎えているブルーベリー。生食のほかアイスクリームや洋菓子にも華やかな青紫色の彩りと甘酸っぱい風味を添えるこの果実が農産物として初めて栽培されたのは1968(昭和43)年、小平市においてだった。地元農家が長年、試行錯誤して育て上げたブルーベリーを今世紀に入って産官学が一体となってPRに努め、今では小平市のシンボルともいえる特産品として人々に親しまれるようになった。

 1966(昭和41)年3月、東村山市恩多町の建売団地「久米川文化村」で集団赤痢が発生、患者・保菌者は400人以上に上った。団地の開発業者が殺菌装置の壊れた井戸水を供給し続けたのが原因だった。

 東村山市野口町にある北山公園菖蒲苑のハナショウブが見ごろと聞いて行って来た。菖蒲苑内の菖蒲田約6,300㎡には約600種、約10万本のハナショウブが今を盛りと咲き競っていた。一部はトトロの森で知られる狭山丘陵(八国山緑地)が借景となり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 1962(昭和37)年12月、「東久留米団地」(2280戸、現在「グリーンヒルズ東久留米」)の入居が始まった。50年代末から西武線沿線には次々に団地が建設されていた。当時の久留米町にとっては、59年に入居を開始した「ひばりが丘団地」に続いて2番目となる日本住宅公団(現都市再生機構)による団地の建設となった。この建設地には、戦前から戦後にわたる日米の軍事施設をめぐる歴史が刻まれていることはあまり知られていない。

 わが家のグミの木が今年もたわわに実をつけた。5年前に鉢植えを買って庭の片隅に植えていたのが、2階の屋根の高さまで育った。

 1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)にあった「民族学博物館」が閉館した。生活の中に息づく民具の紹介と研究を夢見た学者たちが私財を投じて1939(昭和14)年に開館。野外で民家などを展示する日本初の博物館だった。時を経て地元でもほとんど忘れ去られつつあったが、近年、その業績と軌跡を記録し、後世に伝える市民活動が展開している。

 1950年代後半から60年代前半にかけて文部省が強行した教員の「勤務評定制度」(勤評)と「全国中学校一斉学力調査」(学テ)は「教育行政の中央集権化」として全国で激しい反対運動が巻き起こった。戦後早くに革新町長を生んだ保谷町(現西東京市)は激しい抵抗の末に勤評を見送り、1962(昭和37)年には学テを実施しない全国唯一の町となり注目を集めた。隣の田無町(現西東京市)でも同年、町政史上初の革新町長が誕生した。60年代後半から全国で革新自治体が相次ぎ誕生するブームに先駆けた町政の転換だった。以後両町では長く革新町政・市政が続き、立ち遅れたインフラ整備を進めていった。

 わが家のニッコウキスゲが咲き始めた。開花したのは5月15日。春が暖かかったせいか例年より10日以上も早い。

 1962(昭和37)年、東村山町(現東村山市)に廃棄物処理施設「秋水園」が完成した。急速な人口増加に伴うごみ、し尿などの収集、処理という大問題に対する先進的取り組みだったが、その後も社会情勢の変化に従ってさまざまな対応と改良を迫られた。“迷惑施設”とのイメージを克服し、環境保護最前線の役割を担う縁の下の力持ちのチャレンジが続いている。

 1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)のひばりが丘団地に小さな食料品店「ことぶき食品」がオープンした。地域に根ざした乾物店は、やがて郊外型のファミリーレストランを興し、時代の波に乗って世界的な巨大外食チェーンに発展する。その名前は発祥地のひばりが丘団地にちなんで「すかいらーく」(ひばりの英語名)と名付けられた。

 下宿コミュニティセンター(以下コミセン)では、3月12日(日)に、西東京レスキューバードさんの助けを得て、防災まち歩きを実施した。主催者として私も参加したので、今回は、その感想をまとめた。