北多摩戦後クロニクル 第41回
2001年 田無と保谷が合併し「西東京市」誕生 100年越しの構想が実現

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年10月17日

 2001年1月21日、田無市と保谷市が合併して西東京市が発足した。両自治体の合併構想は明治時代にまでさかのぼり、近隣の自治体を巻き込みながら協議と決裂を繰り返す紆余曲折を経てきた。100年越しの合併は「21世紀最初の新設市」「市民参加の都市型合併」として全国の注目を集めたが、市を二分する市長選が繰り広げられるなど波乱含みのスタートだった。

 

西東京市辞令交付式

西東京市辞令交付式(2001年1月21日、『田無市・保谷市合併の記録』より)

 

合併構想の紆余曲折

 

 田無と保谷の合併話は、そもそも三角おにぎり状の田無をカニがハサミで挟むように保谷が囲んでいる特殊な地理に由来する。この不自然な南北のハサミは江戸時代に上保谷村と下保谷村から住人が移り住んで新田開発をしたことによるという。

 1889(明治22)年の甲武鉄道(現JR中央線)開通で経済的に地盤沈下した田無は、東多摩郡(現在の中野区、杉並区)との合併を進める過程で地理的に壁となる保谷に合併を持ちかけたが、保谷内の調整がつかず実現しなかった。

 

西東京市

「西東京市合併10年のあゆみ」(編集・発行:西東京市企画部企画政策課)から

 

 

 1930年代には、内務省主導で武蔵野町(現武蔵野市)を中心とした田無町、保谷村、三鷹町(現三鷹市)、小金井町(現小金井市)の5町村合併構想が持ち上がるが、田無と保谷は「大武藏野」への吸収を嫌って2町村の合併を模索。だが両者の思惑がすれ違って頓挫した。

 戦後になると、地方自治確立に向けた指針を打ち出したGHQ(連合国軍総司令部)発表のシャウプ勧告を受けて1953年に町村合併法が施行された。いわゆる「昭和の大合併」が始まり、当時1万近くあった市町村数は61年までに3分の1に激減した。

 北多摩で再び浮上した「大武藏野構想」はやはり流れ、田無町、保谷町、久留米町(現東久留米市)は3町合併に向けて動くが、足並みが揃わない。田無、保谷の合併の働きかけに久留米町は1961年「時期尚早」と背を向けた。合併すれば人口比率や議員配分などから久留米町の不利になるとの判断だった。

 田無、保谷は2町合併の交渉を続けるが、当時人口が全国1位にまで急増していた保谷は単独市制に動く。国や都、マスコミからの圧力によって2町の合併協議を再開したものの、やはり決裂。2町は67年に単独市制を施行して合併の動きは霧消した。

 合併はなぜ実現しなかったのか。成功した多くのケースは自治体の規模に大きな格差があった。逆にいうと、同規模の自治体同士は財政上の負担や庁舎の設置場所をめぐる攻防を招いた。北多摩では1950年代半ばから人口が急増し、単独市制が可能になったことも大きい。多くの合併が実現した西多摩、南多摩に比べると、北多摩には合併審議の対象になった人口8000人未満の町村がなかったのだ。

 

「あそこって西なのか?」

 

 田無と保谷の合併が再び浮上するのは、90年代に入ってからだ。田無市長が定例議会で合併に前向き発言をし、93年には合併を公約に掲げた保谷市長が当選した。背景には人口増の停滞やバブル崩壊による税収減少と歳出増大がもたらした財政基盤の弱体化がある。

 任意の合併推進協議会は市民の意見を取り入れながら「新市将来構想」を策定し、99年に法定の協議会に移行した。合併に反対する両市民が約18000人の署名とともに直接請求した合併の是非を問う住民票条例案は両市議会で否決されたが、代わりに合併協議会による「市民意向調査」が2000年に実施された。両市長とも「反対票が賛成票を上回れば合併は白紙」と表明したため、18歳以上の両市民を対象とする事実上の住民投票となった。

 「意向調査」は全国の注目を集めたが、投票率は44%と振るわなかった。保谷市では合併に賛成65%・反対25%、田無市では賛成48%・反対43%。両市とも賛成票が反対票を上回ったが、保谷市民のほうが合併に前向きだったことがわかる。保谷市の財政基盤がもともと脆弱だったことに加え、保谷のいびつな形状で住民が日常的に不便をかこっていたことにもよるだろう。「保谷では選挙運動がやりづらくて仕方なかった」という選挙担当者の嘆きも聞かれた。

 調査は新市の名称も問うた。全国公募による最終5候補のうち投票結果は上位から西東京市、ひばり市、けやき野市、みどり野市、北多摩市だった。新市名「西東京市」は物議を醸した。当時の石原慎太郎都知事は「あそこって(東京の)西なのか? 北だろう」と皮肉交じりに指摘した。確かに西東京市は東西に細長い東京都の真ん中よりも少し東側に位置する(地図参照)。「西」はあくまで23区から見た方角である。そこに北多摩住民の23区への過剰な意識を見てとることも可能だろう。

 

西東京市カルタ

西東京市カルタ製作委員会が2020年に市民公募で作った「西東京市カルタ」より(カルタ製作委員会提供)

 

多難な船出

 

 2001年1月21日、人口約18万人の西東京市が正式に発足した。1カ月後の市長選は、合併協議で手を取り合ってきた現職の2市長が出馬する異例の展開になった。新市の主導権をめぐって市を二分する激戦の結果、前保谷市長が約26000票を獲得し、前田無市長に約2800票の差を付けて当選した。当時の有権者数は田無市約6万4000人、保谷市約8万5000人。その差が選挙結果を左右したとの指摘もある。

 選挙後、前田無市長が選挙中まかれた中傷ビラについて刑事告訴をしたり、保谷陣営が田中康夫長野県知事(当時)の激励電報を捏造したことが発覚したり、旧田無市幹部職員2人が辞表を提出したり…と両陣営の対立はくすぶり続けた。初の市議会は空転を続け、9回も会期を延長するなど多難な船出となった。

 市長室は田無庁舎(旧田無市役所)、議場は旧田無市議会に設けられた。問題は山積していた。市の組織再編と人事、庁舎移転、電算システムの統合、条例・規則の調整。そして逼迫する財政をどうするか――。

 

西東京いこいの森公園

西東京市誕生を記念して整備された西東京いこいの森公園

 

 合併から11年経った2012年に西東京市が市民に対して合併に関する意識調査を実施した。「合併して良かったこと」は「はなバスの運行など交通の便が良くなった」(26%)、「駅周辺整備など大規模なまちづくりが促進された」(19%)。「もう一歩と感じること」は「市としての一体感が感じられない」(29%)、「公共料金などの市民負担が増えた」(24%)という声が上がった。

 職員の削減を含む「行財政の効率化」を掲げた合併に伴い、両市が保有する公的資料が大量に廃棄された。地元の郷土史研究家は「西東京市の歴史を調べるのが非常に難しくなった。住民や市役所職員の間には、いまだに保谷と田無のムラ意識的なものが残っている。結局、合併によるメリットはあまり実感できていない」と話す。

 

解体される前の西東京市役所保谷庁舎(@ノースアイランド舎)

 

 庁舎問題も難航している。合併以来、保谷・田無の旧2市庁舎を併用してきたが、2016年の庁舎統合方針では33年度を目途に庁舎統合を目指すとし、老朽化した保谷庁舎の解体と田無第二庁舎の新設が進んだ。その後、市は統合方針を見直し、2023年7月、「統合庁舎は2048年度を目途に実現する」と発表した。今から四半世紀後、西東京市誕生からほぼ半世紀後となる。統合庁舎の建設地はまだ決まっていない。
(片岡義博)

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【主な参考文献】
・『保谷市史 通史編3 近現代』
・『田無市史 第三巻 通史編』
・多摩広域行政史編さん委員会『多摩広域行政史』(財団法人東京市町村自治調査会)
・西東京市企画部企画課編『田無市・保谷市合併の記録』
・西東京市企画部企画課編『西東京市合併10年のあゆみ』
・西東京市民白書をつくる会編『西東京市民白書』(2004年)
・津村恒夫著『西東京市誕生・その前後の記録』

 

 

片岡義博
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