北多摩戦後クロニクル 第6回
1948年 津田塾大学の開校 時代を担う女性を育成

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年2月7日

 1948(昭和23)年3月、学制改革に伴って北多摩郡小平村(現小平市)に女子大学「津田塾大学」が設立され、英文学科に49人が入学した。翌年には数学科が増設され、2学科からなる学芸学部となった。以後、津田塾大学は「私立女子大の最高峰」として英文学や国際関係学の分野をはじめ各界で活躍する卒業生を多数輩出し、女性の地位向上と社会進出に大きく貢献する。

 

津田塾大学

津田塾大学(小平市津田町)

 

女性の高等教育に捧げた生涯

 

 前身は1900年、東京・麹町に設立された日本初の私立女子高等教育機関「女子英学塾」だった。創立者はその肖像が2024年度に発行される新5千円札の「顔」となることで注目される津田梅子(1864〜1929年)。2022年3月、女性の高等教育に捧げた生涯が、広瀬すず主演で「津田梅子〜お札になった留学生」(テレビ朝日系列)としてドラマ化された。

 

新5千円札

津田梅子の肖像が採用された2024年度発行の新5千円札

 

 津田は1871(明治4)年、日本初の女子留学生5人のうちの最年少6歳で渡米した。17歳で帰国した際、日本の女性差別の実態に衝撃を受け、女性の地位向上のための学校設立を決意する。2度目の米国留学から帰国後、教鞭をとっていた華族女学校などの職を辞し、麴町区一番町に念願の「女子英学塾」を創設した。

 良妻賢母を育てるそれまでの女子教育とは異なり、キリスト教の精神を尊び、進歩的でレベルの高い授業が評判となった。しかし一番町から元園町を経て五番町に移転した女子英学塾の校舎は関東大震災(1923年)による火災で焼失してしまう。

 英学塾は手狭だった麹町から小平への移転を決めて2万5000坪の土地を取得していた。移転の最初の仕事は防風林・防砂林を敷地の周りに植えることだった。春先、一帯は季節風のために砂塵が巻き上がる。現在、キャンパスを囲む豊かな樹々は当時、植林されたものだ。

 1931年、新学舎とともに最新の設備を備えた学生寮2棟が完成した。しかし津田梅子はその2年前に64歳でその生涯を閉じた。「UME TSUDA」と刻まれた墓石が大学構内に建てられるとともに校名が創立者の名を冠した「津田英学塾」に改められた。

 

津田梅子の墓

津田梅子の墓(津田塾大学構内)

 

 戦時下、日米関係は悪化し、米国と深いつながりを持ち英語教師の育成を目的とする塾は激しい逆風にさらされた。「英語不要論」とともに英語教師、塾の学生数は激減し、塾は存続の危機に陥った。

 英学塾の第2代塾長の星野あい(1884〜1972年)は、塾存続のため1943年に理科を新設し、校名から「英学」を外して「津田塾専門学校」と改めた。近隣女性のための託児所「津田こどもの家」を開所し、食糧難対策として運動場や寄宿舎を農園に、体育館などを日立航空機のエンジン製造の作業場にして時局に応じた。

 敗戦後、星野は塾の大学昇格のために奔走する。津田塾大学の初代学長に就いた星野の尽力を称え、大学にある図書館は「星野あい記念図書館」と名付けられた。

 

女子学生が多い町

 

 小平市は多くの大学を擁することで知られる。もともと西武グループ創始者の堤康次郎(1889〜1964年)が1920年代に小平を含む地域に大学都市を構想し、東京商科大学(現一橋大学)の予科が27年に千代田区神田一ツ橋から小平に移転した。女子英学塾の移転もその時期に重なる。1946年には恵泉女子農芸専門学校が小平の旧陸軍経理学校東校舎跡地に移転してきた。

 

多摩湖線商大予科前駅

西武多摩湖線商大予科前駅(1948年、現一橋学園駅、小平市立図書館所蔵)

 

 1950年の国勢調査が示す6歳から24歳の在学者数の年齢別構成を見ると、旧小平町で大学・短大に在学する19~24歳の割合は男子16%、女子15%で、全国平均の男子4%、女子2%に比べるとはるかに高い。東京都の19~24歳の割合は男子15%、女子4%だから、小平町の女子の割合は東京都全体の平均と比べても格段に高いことがわかる(『小平市史』近現代編より)。

 59年に朝鮮大学校、61年に武蔵野美術大学、64年に白梅学園短期大学、82年には嘉悦女子短期大学(現嘉悦大学)がそれぞれ小平に移転、開設。85年には文化女子大学(現文化学園大学)小平キャンパスが完成した(2015年に渋谷区代々木に移転)。小平は学生の町であると同時に、女子学生が多い町でもあった。

 

津田塾大学本館

中庭から見た津田塾大学本館

 

各界を担う人材を輩出

 

 1975年、津田塾大学で「替え玉受験事件」が起こった。娘に代わって高校教師の父親が女装して受験し、2日目に替え玉が発覚した。「私立女子大の最高峰」「女の東大」と呼ばれた同大の人気を伝える事件でもあった。

 しかし、90年代に入って女子大離れが進み、女子大の数は98年の98校をピークに減少していく。そのなかで津田塾は英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)が発表した「世界大学ランキング日本版2022」で総合順位60位、私立女子大学としては5年連続で1位を誇っている。 

 政界や官界、経済界、学術界を担う人材を多数輩出してきた。山川菊栄(評論家)、犬養道子(評論家)、鶴見和子(社会学者)、吉野裕子(民俗学者)、大庭みな子(小説家)、小池昌代(詩人・小説家)、戸田奈津子(字幕翻訳家)…。

「女性第1号」も次々に生み出した。女性初の外交官・山根敏子、女性初の東京大学教授になった社会人類学者の中根千枝、女性初の官房長官になった森山真弓。元文部大臣の赤松良子は労働省初代婦人局長時代に男女雇用機会均等法制定の中核を担った。ディー・エヌ・エー会長の南場智子は女性初の日本経団連副会長で日本プロ野球オーナー会議議長だ。

 ハンセン病患者に寄り添い続けた精神科医の神谷美恵子は同大の教員でもあった。いずれも津田梅子が育んだ「女性の自立と社会貢献を促す精神」を受け継ぐ女性たちだ。
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・『津田塾大学 津田梅子と塾の90年』(津田塾大学)
・『津田塾大学一〇〇年史』(津田塾大学)
・「津田塾の歴史」(津田塾大学公式サイト
・『小平市史』
・大門正克「今を生きる小平の歴史−近現代の一五〇年−」(『小平の歴史を拓く-市史研究』第6号)

 

片岡義博
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