北多摩戦後クロニクル 第4回
1947年 清瀬に結核研究所付属療養所(上) 「亡国病」との闘い経て医療の聖地へ
戦後間もない1947(昭和22)年11月、清瀬村(現清瀬市)に、結核研究所臨床部が開設された。その後、結核研究所付属療養所、同附属病院を経て89(平成元)年、結核予防運動の世界共通のシンボルを名称に取り込んだ複十字病院と改称した。大規模な総合病院になっているが、今も60床の結核病床がある。
■ 立地、環境で白羽の矢
結核は明治以来、日本で広く蔓延し多くの人命を奪った感染症だった。昭和初期には年間十数万人が死亡し、国民の死因第1位を占めたばかりでなく、多くの若者が犠牲になったことから「亡国病」とも呼ばれた。化学療法が確立するまでは隔離と静養による自然治癒を待つしかないのが実態だった。年齢、性別、貧富を問わず魔の手を広げる結核に人々はおびえ、その結果としての社会的差別や偏見も生み出した。
清瀬への結核研究、医療機関集中は、戦前の31(昭和6)年、現在の西武池袋線清瀬駅西側に広がる雑木林に東京府立清瀬病院が建設されたことに始まる。当時東京・江古田に東京市立療養所があったが、昭和に入って再び急増を見せた患者を収容しきれなくなり、新施設の用地が物色されていた。都心から25キロ圏内と近いわりには新鮮な空気と静穏な環境を保つ清瀬が注目され、地元の反対を押し切る形で実現した。清瀬病院は統合や移転の経緯をたどり、現在、国立病院機構東京病院として結核を含めた呼吸器疾患を中心とした医療の基幹施設となっている。
清瀬病院がきっかけのようになり、周辺にはサナトリウムと呼ばれた結核療養所をはじめとして次々と施設が建設された。地理的、自然的条件が比較的そろっていたこともあるが、病気に対する偏見などから近隣への居住を避ける傾向が根強かったことも施設集中に拍車を掛けた。
戦後になると、結核治療に有効なストレプトマイシンなどの薬や治療法の開発、普及が始まったが、戦後の混乱もあって急速な状況改善には至らなかった。国は1951年、BCG接種、健康診断、適正医療の普及を3本柱とする結核予防法を制定して本格的な対策に乗り出し、結核病床を倍以上の25万床に増やすことを計画した。これに伴い清瀬でも結核病院の新設、増床が急ピッチで進められ、「最盛期」の60年ごろには十数の病院に約5000人が入院、治療を受けていた。
さらに、診断、治療、予防に次ぐ「第4の医療」とされるリハビリテーションの専門教育が日本でも始まった地が清瀬だったことも特筆される。63年5月、東京病院内に付属施設としてリハビリテーション学院が開校。米国、英国の専門家を招いて身体的回復にとどまらず、精神的、社会生活的サポートを目指す本格的なリハビリ教育が行われた。組織再編により2008年閉校となるまでに1514人の卒業生を社会に送り出した。
■ 治療、予防、研究のセンターとして
その後、結核は蔓延状況の改善が見られ、60年代後半からは結核病床の廃止や転換が進んだ。しかし完全に克服されたわけではなく、難治化、患者の老齢化、その一方で若年層の患者増加といった問題にも直面している。日本は51年以来、世界保健機関(WHO)が定める基準で「中蔓延国」だったが、ようやくG7先進国中最も遅れて2021年の統計で人口10万人当たりの患者数が10人を切る「低蔓延国」になった。
さらに治療に加えて基礎研究や海外との交流などの課題もある。清瀬はそのような施設の全国的、国際的センターとしての役割を期待され、医師のほか、保健師、看護師、医療技術者、行政担当者の研修などを通じて大きく貢献している。
府立清瀬病院の跡地は中央公園と国立看護大学校になっており、中央公園には「ここに清瀬病院ありき」と刻まれた石碑が立っている。また、東京病院敷地内の雑木林には戦前に外気療法と作業療法のために建設された小屋のような「外気舎」の1棟が保存され、当時の闘病生活の厳しさを物語っている。
清瀬市はこのような特色ある地域の歴史と医療に果たした役割を重視して市政発展に生かす取り組みを続けている。「世界医療遺産」的な位置づけや、類似の歴史や役割を担った都市、地域と連携した「サミット」の開催なども考えられているという。
2022年、清瀬市郷土博物館で「結核療養と清瀬」と題したテーマ展示が行われ、多くの見学者を集めた。企画した同市の市史編さん室は市史の1冊として結核療養編を刊行する準備を進めており、一般から結核療養にまつわる資料、情報を寄せてくれるよう呼び掛けている。
(飯岡志郎)
【主な参考資料】
・結核予防会顧問・島尾忠男「清瀬と結核」(結核予防会JATA/機関誌「複十字」)
・「清瀬と結核」(清瀬市)
・清瀬市『市史研究 きよせ』
・清瀬市企画部シティプロモーション課市史編さん室ブログ・市史編さん草子「市史で候」(清瀬市)
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