書物でめぐる武蔵野 第29回 春爛漫、フェンスの向こうのアメリカ 3

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年3月23日

 春である。例年より2週間くらい前倒しで花が咲き始めた感じがある。人間社会で凄惨な殺し合い=戦争が繰り広げられようと、季節はめぐり、花は咲く。こういう自然詠ははるか昔からあるが、これは日本独特のものだろうか。今回は、前回に続いて「米軍基地」から始まり、図らずも戦後「日本」の立ち位置を考えることになった。

 

桜

黒目川と落合川が「落ち合う」あたりの桜らしき花 3月5日撮影(3月19日には葉だけになっていた)

 

米軍基地をめぐる村上龍の作品

 

 横田基地、東京の郊外に厳然と位置する在日米軍司令部、つまり日本の中の「アメリカ」。「東京・郊外・米軍基地」というキーワードを探求すれば、第二次世界大戦から21世紀の現在にいたる日本という社会のあり方を探ることができるかもしれない。当然のことながら、ウクライナ戦争以降の激動する国際秩序にも関連していくことだが、大風呂敷を広げず、身近な地元的なところから考えていきたい。

 横田基地については、今回も『日本「米軍基地」列島 映画に描かれた基地の風景』(吉田啓、音羽出版、2020年)のお世話になることにする。

限りなく透明に近いブルー

『日本「米軍基地」列島』の213ページ

 横田基地を描いた作品といえば、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を想起する人も多いだろう。村上のデビュー作であり、芥川賞と群像新人賞を受賞したこの小説は76年に発表されている。基地周辺に住む若者の生(性)態を描き、センセーショナルな話題となった。

 それに比べ映画の影は薄い気がするが、村上自身が監督を務めて79年に公開されている。小説は賛否両論、さまざまな評価があり、「限りなく××~」というフレーズは流行語にもなったが、「映画の評価はお世辞にも高くない」(前掲書p215)。三田村邦彦と中山麻理が出ているのだが、筆者は観たという記憶はあるものの、中身は覚えていない。

 一発当てた人(ミュージシャンが多い)は、映画を撮りたがる習性がある。だいたい失敗するのだが、村上は例外で、その後何本もメガホンをとっている。彼はれっきとした映画監督でもある。『だいじょうぶマイフレンド』(83年)、『ラッフルズホテル』(89年)、『トパーズ』(92年)、『KYOKO』(96年)が自作の監督作品だ。

69

『日本「米軍基地」列島』の203ページ

 村上龍の戦争小説で、もし日本が太平洋戦争で降伏せず、徹底抗戦していたらという設定の『五分後の世界』(94年)やその続編『ヒュウガ・ウイルス――五分後の世界2』(96年)などは映画化されると面白いが、映画会社は実写化は難しいと判断して二の足を踏んだと『日本「米軍基地」列島』は推定する。北朝鮮のコマンドが博多を占拠するという内容の『半島を出よ』(04年)は、日韓合作の話があったそうだが、実現しなかったようだ。

 ただ、軍港の街・佐世保で生まれ育った村上が、69年に経験したと思しき「県立高校バリケード封鎖闘争」をコミカルに描いた小説『69 sixty nine』(87年)は、李相日監督で2004年に映画化されている。出演は妻夫木聡、安藤正信。ブレイク前の星野源も出でている。脚本は宮藤官九郎。

 

「地図にないアメリカ」

 

 前掲書ではタイトルのみの紹介だが、横田基地周辺を舞台にした映画を思い出した。81年の藤田敏八監督『スローなブギにしてくれ』である。原作は片岡義男。浅野温子の初主演作。古尾谷雅人もこの作品で知った。テーマ曲は、南佳孝の「スローなブギにしてくれ」で、作詞は松本隆、編曲は後藤次利。余談だが、こうした固有名詞はまさに80年代という感じがする。

 なぜか覚えているシーンがある。原田芳雄がジョギングしていて、心臓発作を起こして倒れ死んでしまうのだが、走っているのが横田基地のフェンス近くなのだ。原田の役どころは、旧米軍ハウスにもう一人の男と女性の3人で住むという、『限りなく…』同様、世間からはちょっとずれた規範に生きている設定になっていた。

 基地は、日本のなかに異文化をもたらしてきたのは間違いないだろう。

 最近「シティ・ポップ」なるものの逆輸入的人気で、その源流扱いをされる「はっぴいえんど」の大瀧詠一は福生にスタジオを構えていたし(「福生ストラット」という曲もある)、亡くなるまで瑞穂町に住んでいた。同じグループの細野晴臣は、前回紹介したジョンソン基地近く、狭山市にあったという「米軍ハウスで」、1stソロアルバムを録音している。

『大瀧詠一Writing&Taking』

『大瀧詠一Writing&Taking』

 2人は対談で、「FEN(極東放送網)の体験は大きかった」(細野)と述べる。「FEN派」(大瀧)という言い方もしている。2人にとってFENは重要な音楽的な情報源であり、「ヴァーチャルなアメリカ」を体験するメディアだったようだ(「ミュージック・ステディ」85年7月号、『大瀧詠一Writing&Taking』白夜書房、15年)。極論すれば、基地がなければ「はっぴいえんど」の音楽はなかったことになる。

 細野(47年生まれ)と大瀧(48年生まれ)は団塊の世代で、筆者は彼らより10歳下の世代になるが、FENのことはいつしか知るようになった。ちゃんと聴くだけの語学力がなかったのが情けないが、人気DJウルフマン・ジャックのナレーションがかぶるヒット曲をエアチェックした記憶がある。基地由来文化の浸透度はかなりのものだったといえよう。

 細野との関係が深い荒井(松任谷)由実の曲には、米軍基地周辺を舞台にしたものが8作ある、と指摘するのは前掲書である。「恋のスーパーパラシューター」「ベルベット・イースター」「海を見ていた午後」「雨のステーション」「中央フリーウェイ」「天気雨」「LAUNDRY-GATEの思い出」「キャサリン」がそれだという(p214)。

 なるほど、「調布基地」は73年まで米軍基地だったし(現在は調布飛行場などになっている)、本当は「フリーウェイ」ではない有料高速道路を「まるで滑走路」に見立てたり(以上「中央フリーウェイ」)、横浜「山手のレストラン」から軍港横須賀がある三浦半島を見たりする音楽的な描写(「海を見ていた午後」)、なんでもない風景を映画のワンシーンのように変えてしまう想像力は、初期ユーミンにおける「アメリカ」がもたらしたものかもしれない。

 そうだ、忘れてはいけない。今回3回目の使用となる「フェンスの向こうのアメリカ」というタイトルは、柳ジョージの代表的なヒット曲から借用させていただいた。これは横須賀を舞台とした曲で、「白いハローの児」に追われたりする、たぶん柳の体験が織り込まれた作品なのだろう。「フェンスの向こうの××」は、「限りなく××」と並んで応用範囲の広いフレーズだ。リスペクトをこめて言い得て妙だと思う。

 このように、基地には「ヴァーチャルなアメリカ文化」がへばりついている。多くの人間が多大な影響を受けてきたこのヴァーチャルなアメリカ文化のことを、知人のジャーナリストは「地図にないアメリカ」と呼んでいる(細田正和ほか『明日がわかるキーワード年表』彩流社、09年)。つまり日本中には、日本なのに日本ではないフェンスで囲われたアメリカと、「地図にないアメリカ」が共存している。この面倒くささが、日本とアメリカの関係を象徴していると思う。

 

「アメリカの影」

 

『アメリカの影』

『アメリカの影』

 こうした問題をデビューから亡くなるまで追求していたのが、批評家の加藤典洋だ。85年刊の第1評論『アメリカの影』では、江藤淳を批判的に検証することでこの問題に迫っている。当時文壇の大御所で、日本国憲法によって戦後日本の言語空間はずっと歪められ、拘束され続けてきたとし、その根源たるGHQの占領政策を研究していた江藤淳は、村上龍の『限りなく…』(76年)を「サブカルチュア」であり批評に値しないと全面否定した。しかし、その4年後、村上よりもっとサブカルっぽく、世間では〝カタログ小説〟などと軽くみられていた田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(80年)を、江藤が評価したのはなぜか。この問題から検証はスタートする。

 加藤の解釈によると、江藤はサブカル云々ではなく、村上の作品に苛立っているという。何に苛立っているかというと、「村上がそこでアメリカと日本の関係を占領被占領に近いかたちで提示したうえで、いわば『ヤンキー・ゴウ・ホーム!』とやっている点」(p22)である。江藤は60年反安保闘争の際、そのような急進的ナショナリズムの声を聞き、結局それに幻滅した。それが『限りなく…』によってまたも想起させられ、それに苛立っているというわけだ。

 一方の田中に、江藤は「批評精神」を見出し、これを評価する。どんな「批評精神」なのか。日本は「一九四六年憲法」の拘束から自由になり、アメリカの圧迫をはねのけなければならないのに、アメリカなしにはやっていけないというジレンマを江藤の論理は抱えている。このジレンマに『なんとなく…』は自覚的であり、それを江藤は「批評精神」と呼んでいるのではないかと加藤は解釈する。消費社会が本格化した80年代、そのブランド文化に事細かく注を付けていく田中の姿勢は、アメリカの影の下で消費を謳歌するという日本の事態、つまり日本の「弱さ」に十分自覚的だ、と加藤も田中を評価している。

 

「アメリカ」なしでやっていけるか?

 

 この議論は80年代半ば、40年近く前のものである。しかし、「アメリカなしにはやっていけない日本」という状況は、いまも変わっていない。それどころか、まさにそれが問われているのが、「ウクライナ戦争」以後の世界ではないだろうか。

 村上龍は、先にも少しみたように、その後は圧倒的な規模の世界観、歴史観をもつ作品を次々に発表していった。この80年半ばの時点でも、村上は「国家」からも、「アメリカの影」から自由だと加藤は述べている(p88)。村上は、「日本的なるもの」を嫌い、それを批判し続けてきたという印象がある。批判は当たっているだろうが、それが私たちの行動規範になるかは別問題だという気がする。

 田中康夫は、その「批評精神」を生かし、作家・タレントから政治家になった。長野県知事、衆・参議員にもなり、2021年、横浜市長選に立候補して落選したのは、記憶に新しい。彼のアメリカへの姿勢はこちらの勉強不足で、わかりません、悪しからず。

 加藤典洋は、戦後民主主義批判という意味では魅力的でもある江藤淳の論理をどうやって乗り越えるか、というモチベーションで『アメリカの影』を書いたのだと思う(以下《》内は大意)。

 加藤によると、江藤淳が描いていたありうべき日米関係は、《米国の〝核の傘〟の下にとどまり、日米安保体制を維持するが、「交戦権」は獲得する。これによって日米は対等で、自由な主権国家間の同盟に変質する》ということになる。しかし、《日米関係の悪化によって、日本政府は核武装による自主防衛への路に追いつめられる》という「悪夢」のような事態も想定される。つまり最悪の場合、「アメリカ」なしでやっていくには核武装しかない。

 そうならないためには、開かれたナショナリズムが必要だ。が、そういったナショナルな心性は高度成長下、失われてしまった。それを取り戻し、かつ近代主義的でもあることを実現する「国家」が希求されるというわけである。

 こうした論理に対し加藤は、江藤は「国家」と「国民」を同一視していると批判する。そして、国民としての個人が、自分を超えた「国家」を必要としてしまう構造が、「アメリカ」によって「入れ子」型になっていることを指摘する。つまり、「アメリカ」が「国家」として日本を統治し、その「日本」が「国家」として人々の内面を統治するという入れ子構造である。それでいいのか、ということになる。

 この時点で加藤は、石牟礼道子『苦界浄土――わが水俣病』(65年)などを参照しながら、「母性原理としての「自然」の中に、日本人の個人が国家から独立する契機をもちうることを」(p107)追求していたように思われる。

 江藤はその後も〝国家百年の大計〟を考えていったが、99年に自死を選んだ。

 加藤は、『敗戦後論』(97年)では戦後社会や憲法について多くの論争を巻き起こし、2015年の『戦後入門』では、国連改革と国際主義によって「安保タダ乗り」論を乗り越え、対米従属を解消する具体的な「九条強化案」を提起した。さらに論を展開していたが、19年に病没。残念としか言いようがない。

 

米国軍用輸送機C-130J-30

横田基地の米国軍用輸送機C-130J-30  Wikipediaより(パブリックドメイン)

 

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杉山尚次
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書物でめぐる武蔵野 第29回 春爛漫、フェンスの向こうのアメリカ 3」への2件のフィードバック

  1. 有賀達郎
    1

    同時代人として、多くの人が懐かしく感じる事だと思います。
    その世代はたくさんいるんだから、もっと発信して欲しいなと思います。
    その時代から次の高度経済成長の担い手として脇目も振らずに走ったので、なかなか言い難い事もあると思いますが、もう時効です。ドンドン発言してください。

    • 杉山尚次
      2

      コメントをありがとうございます。励みになります。失礼ですが、有賀さまは団塊の世代の方でしょうか。ひばりタイムスにぜひ、お考えをご投稿いただければと思います。

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