書物でめぐる武蔵野 第17回 みんなの「武蔵野」

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2022年2月24日

杉山尚次(編集者)

 前回に続き、国木田独歩の「武蔵野の発見」に関する議論をみていきたい。そうすることによって、近隣の見え方が変わってくるのではないか、そのヒントがあるのでないか、という期待をこめて考えたいと思う。今回、ちょっと理屈っぽいです。(写真は、冬枯れの武蔵野 西東京市の旧東大農場にて)

 

柄谷行人のインパクト

 

 独歩の発見に重大な意味を「発見」したのは柄谷行人である。ポイントになる書物は1980年刊『日本近代文学の起源』(講談社、独歩に関しての雑誌発表は78年、岩波現代文庫版は「定本」となっている)。「文学」というより日本の「近代」そのものの成り立ちを、切れ味鋭い論理で明らかにした1冊で、40年以上たってもその論理構造はいまだに影響を持ち続けている。

 この本については、考えれば考えるほど「考えもれ」が出てくる感じがあるのだが、単純化のそしりをおそれず、独歩に関するところをまとめてみよう。

 国木田独歩は「武蔵野」を「風景」として発見した。——この一文のなかに、いろいろなモンダイが潜んでいる。

 ① それは見ている人の「内面」があって初めて成り立つような「風景」である。
 ② 風景は、外的に存在する客観物のようにみえるが、そもそもそういう見え方は、主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場があってはじめて成立する。
 ③ 客観物(オブジェクト)だけでなく、主観あるいは自己(セルフ)も、「風景」が成立させている。
 ④ つまり「風景」の発見は、「近代」の成立と同じ意味をもっている。
 ⑤ ここには、ものの見方の大きな転倒、価値の転倒がある。
 ⑥ この転倒によって、どこにでもある平凡な風景やなんでもない人びとが、文学や絵画として表現されることになった。
 ⑦ 「風景」がいったん成立してしまうと、その起源は忘れ去られる。同様に、いったん「近代」が成り立ち、それが自明で普遍的なもののようになってしまうと、その起源にあった「転倒」は隠されてしまう。

 このように柄谷は、独歩の「風景」を起点に「内面」の構造をはじめとした「近代的なるもの」を次々に取り上げ、「転倒とその隠蔽」の構造を明らかにしていく。「リアリズム」、「遠近法」、「告白」、憲法や議会といった「制度」など……、それぞれについてめくるめくような論理が展開されている。

 この論理構造は魅力的だ。実をいうと、前回「武蔵野イメージ」の独り歩きを指摘したが、ここに⑦の起源の忘却の論理を使ってみた。応用もできる。たとえば法律。

 法律は人間の生活を守るためにあるはずなのに、その起源は忘れられている。だから、法律を守ることが至上命題と化すというような本末転倒がしばしば起こる。ためにするような交通違反の摘発から、軽微な違反を口実とした政治弾圧まで、こういう事態は根源から批判されなくてはいけない。

 

切断か/継承か

 

 筆がすべった。応用問題はともかく、独歩は日本文学にとってどこが画期的なのか、柄谷を参照しながらまとめてみる。

 二葉亭四迷が言文一致の文体を切り拓こうとしながら、江戸文学の引力に抗しきれなかったのに対して、独歩は、四迷のツルゲーネフの翻訳を利用しながら「武蔵野の風景」を自在に描いた。明治二十年末に「言文一致」が確立され、もはや「言文一致」を意識する必要がないほどにそれが定着したことで、その表現は可能になった。そして繰り返しになるが、独歩は「表現」しうる「内面」をもったということでもある。「日本近代文学は、国木田独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したといえる」。(p79)

 さらに、独歩が発見した「風景」は重層的であり、「風景としての風景」という側面をもつ。それまでの、たとえば芭蕉の「風景」は文学概念を「描写」したものだったが、それとは異質な「風景」が創出された。その「風景」は、俗っぽい観光名所のような景観ともまったく違っている。

 だから「武蔵野」の特徴は、「名所」と「風景」を別ものとするような〝切断〟にある。
 柄谷はこの「切断」を強調している。

 これに疑問を呈しているのが、前回も挙げた赤坂憲雄の『武蔵野をよむ』(2018、岩波新書)である。

 「独歩について、柄谷行人のように、近世的なるものへの切断の相においてのみ語ることには、同意しがたい」(p147)とし、独歩の発見した「雑木林の美」は「名所旧跡ではなかったが、歌枕の伝統から切断」されているのではなく、「それは近代が分泌した、あらたな歌枕であったのかもしれない」とする。

 《「風景の発見」は、…雑木林という歌枕に仲立ちされて、もうひとつの「歴史の発見」へと開かれてゆく。独歩のあたらしさは、そのようなひき裂かれた切断/継承のなかにおいてこそ、繊細に掘り起こされなければならない。》(p150)

 独歩が発見したのは「内面」だけでなく、新しい「歌枕」的景観であり、この叙情は近世以前とつながっているという見解だ。これは柳田国男の〝独歩は江戸趣味〟という考えとも重なる(前回参照)。「歴史の発見」というのは、「江戸」と「武蔵野」をつなぐ農業的なむすびつきや柳田国男が発見した「常民」(独歩の「忘れ得ぬ人々」)のあり方を検証していくことを意味しているようだ。

 切断か継承かという議論はおくとして、独歩が発見したのは「あたらしい歌枕」だという考えは興味深い。西洋的で近代的な「風景」といっても、どこか日本的な情緒と通底しているところもある、ということか。「新しい」とか、あらたな「発見」だ、といわれているものが、じつは前からあったものと同じ構造だったという指摘は、どこか〝柄谷行人的〟だと思うのだが、いかがだろう。

 

第三の視線

 

加藤典洋「風景論」

 独歩の発見した「風景」に関する議論を、もうひとつ紹介したい。加藤典洋の「武蔵野の消滅」という文章で(89年、『日本風景論』90年、講談社所収、講談社文芸文庫)、柄谷の議論をふまえながら、別の角度からこれを論ずる。

 柄谷の議論は、「風景」の発見と軌を一にする「内面」の発見に比重があり、この「風景」について見ていないところがあるのではないか、と問題を提起する。そして「武蔵野」のなかで有名なエピソードが引かれる。ここでは独歩の原文を引用しよう。

 (友人と境[武蔵境]近くの桜橋に、ある夏、散策にでかけたときのこと、その橋の近くに茶屋があり)《この茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何にしに来ただア」と問うた事があった。/自分は友と顏を見合わせて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑て、それも馬鹿にした様な笑いかたで、「桜は春咲くこと知ねえだね」と言った。》六

 

 桜橋は玉川上水沿いにあり、明治期は、その名の通り桜の名所だったのだろう。通常ここにやってくるのは桜を見るのが目的の観光客で、「探勝的景観」を求めている。この観光客の視線を「視線①」とする。婆さんのような地元民が生活の場を眺める視線を「視線➁」とする。婆さんは「視線①」は理解する。しかし、桜のない季節外れにこの地にわざわざ「散歩」しに来た独歩たちを婆さんは理解できない。いま・ここには視線①に対応するものがないと感じているからだ。

 

独歩記念碑と桜橋

桜橋のたもとにある独歩の文学碑(左)と現在の桜橋(右)

 

 一方独歩は、婆さんが馬鹿にした「ただの風景」に「武蔵野」の美を発見した。この3つ目の視線③こそ、独歩が発見した独自なものだと加藤は指摘する。

 柄谷が西洋の「文学」に影響を受けて発見した「風景」を解明したのに対し、加藤は「それまでの文化コードとしての景観意識からの離脱」を意味する「ただの風景」について述べようとしている。西洋風に成り立つ「風景」でもなく、観光地的な「景観」でもない、日常の中に見出された「風景」が、問題にされている。

 日常的でなんでもない風景が、ちょっとした知識を得たりや視線を変えることによってまったく違ったものにみえる。この論理は、じつを言うと、この連載でやりたいと思っていることに重なる。その意味でも興味深い。

 さらに加藤の「風景」論は、明治の歴史的な文脈に置かれ、意外な論が展開されていく。これについては次回触れたい。

 ちなみに、先の赤坂憲雄もこの「婆さん」エピソードにふれている。このとき独歩と同行した「友人」はじつは恋人時代の元妻であり、その「恋愛」を独歩は隠蔽しているとしている。赤坂は加藤典洋の議論についてまったくふれていない。文脈が違うからなのだろうか。

 ともあれ、もう少し「武蔵野」のあり方についての議論をみておきたい。

 

武蔵野の〝西進〟

 

川本三郎『郊外の文学誌』

 柄谷行人を無視した本もある。川本三郎の『郊外の文学誌』(2003年、岩波現代文庫2011年)だ。これは、東京の郊外を舞台にした明治以降の文学作品を網羅的に解説した事典のように活用できる本だ。「武蔵野」や「郊外」の歴史的な推移を追うことができ、索引もついていて便利だ。

 川本は、「永井荷風が『日和下駄』によって、それまでほとんど語られることのなかった路地や横丁に注目したように、独歩は雑木林という日常的な景観のなかに「樹木美」を見出し」、「武蔵野趣味」を作ったと述べている(文庫p52)。荷風の研究者としても知られる川本らしい説明だ。柄谷の考えにも重なると思うが、柄谷の「か」の字も出てこない。これはなぜだかわからないが、こういう「発見」は書物散歩の淫靡な愉しみである。性格が悪い?

 ともあれ、この本は「西進する武蔵野」というべき事態について述べている。本当は、西進するのは「東京」で、「武蔵野」や「郊外」は追い立てられるように動くのだが、「武蔵野」を主体にするとこうなる。

 同書の多くのところで「郊外」は「武蔵野」と読み換え可能だ。この差異は、じつは大きいのだが、ひとまずは考えないことにする。

 独歩が住んだ渋谷が「武蔵野」だったことは前回述べた。同じように田山花袋が暮らした代々木も、夏目漱石の『三四郎』(明治41[2008])年に登場する「野々宮」が住む大久保あたりも「郊外=武蔵野」だった。

 ただ漱石は、独歩のように「風景」を見出したりはしなかった。市中生まれの漱石にとって「郊外」は「遠くて、物騒で、不気味なところ」であり、そんなところに住むのは「都落ち」だと感じられただろうと川本は想像している。(p59)

 それでも東京はどんどん変わっていく。市中にガスが普及するのは明治40年代だったようで、このことにより「市中」と「郊外=武蔵野」の関係が変わっていった。江戸期から「郊外」から燃料用の薪や野菜を「市中」に届け、肥料用の糞尿を受け取って帰るというリサイクルが成り立っていた。ところが、ガスによって薪の需要が減るわけだから、薪を供給する雑木林をそのままにしておくことはできない。雑木林を畑にする動きが強まっていった。(p85)

 このころ、いまは「郊外=武蔵野」とはいわれない世田谷に青山から移り住んだ作家がいる。「蘆花公園」にその名が残る徳富蘆花である。「田園生活」を求めての移住だったようで、「儂の村住居も、満六年になつた」で始まる『みみずのたはこと』(大正2[1913]年、「青空文庫」で参照できる)では、その暮らしが描かれている。

井伏鱒二『荻窪風土記』

 「糞尿譚」はここにも登場する。昭和初期の荻窪を描いた井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫)にも出てくる。時代が下るが、戦争中、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が糞尿を運び「オワイ電車」などと呼ばれていたことは有名だ。都市と郊外=武蔵野をめぐる糞尿譚は、切っても切れない〝臭い〟関係にあったということである。このことは忘れられている。しかし、生活から糞尿を切り離すことはできない。災害が起こると糞尿が噴出する。

 

関東大震災と昭和7年の市区改正

 

 こうした〝西進〟の背景には、20世紀になってからの急激な都市化の進展(東京都公文書館)がある。また川本は、日露戦争(明治37[1904]年~明治38年)に勝った時代的な空気を指摘しているが(p90)、やはり決定的なのは大正12[1923]年の関東大震災だろう。復興の過程で、繁華街の中心は西へ移動し、住宅地も広がっていった。

 そして昭和7[1932]年の市区改正が大きなポイントとなる。いわゆる「大東京市」35区が誕生し、「市中」と「郊外」の境界は西に移動した。世田谷区、杉並区、江戸川区、葛飾区、板橋区などはこのとき生まれている。独歩が「武蔵野」として名前を挙げていた上記の土地は、こうして「市中」に組み込まれたといっていいだろう。

 そして川本は、「かつて郊外と呼ばれていた周縁地区が東京の市中に組み込まれ、都市化…によって、姿を消し」(p223)、「田園」は失われてしまったと書く。

 《田園と郊外とはどこが違うか。…あえていえば、まだ自然要素が強い、初期の時代が田園であり、それが次第に宅地化され、開発されてゆくと郊外と呼ばれるようになる。》(p222)

 この時点で「郊外」と「武蔵野」はイコールで結べなくなった。むしろこの文脈では「武蔵野」は「田園」と重なっている。「田園」としての「武蔵野」は消えつつあり、イメージとしての「武蔵野」は独り歩きを始めたといえないだろうか。
では、「郊外」はどうなっているのか?

 川本は別のところで「郊外」の成立を大正の終わりごろとし、「それはちょうど、関東大震災後の東京の西への発展、中産階級(小市民)の成立と重なり合っている。主婦が明るい台所に立つ。それが「郊外」の重要なイメージである」(p173)と述べている。

 現在からみると、成立当時の「郊外」は、ずいぶんと〝のどか〟だなあと感じてしまう。当然「郊外」も変貌してきた。独歩の見た「武蔵野」という「田園」は消え、現在の「武蔵野」は住宅地とわずかに残った農地と公園化された雑木林の間でイメージとしてのみ成り立っているのではないか。

 これと同じように初期の明るくのどかな「郊外」は、どこにも見出しにくくなっている。
 このへんの事情を次回、考えてみたい。

 

郊外の風景。西東京市 「のどか」に見えるが柵に囲われている

 

※この連載のバックナンバーはこちら⇒

 

杉山尚次
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