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「書物でめぐる武蔵野」第2回 幻の路線を推理してみた

投稿者: カテゴリー: 連載 オン 2020年11月26日

『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東(2)京王・西武・東武』

杉山尚次(編集者)

 前回、井の頭線には昭和20年代、吉祥寺から北へ、田無を経由して東久留米に至るという幻の延長計画があった、という話を書いた。それはどういう経路だったのか ?  仮説を述べてみたい。推理の材料となった本を挙げておこう。

 

 『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み: 関東(2)京王・西武・東武』(今尾恵介著、2015年、白水社)がそれ。「鉄道省文書」というのは鉄道の許認可に関する戦前の公文書で、これを読み込むと「ここにこういう路線を通したい」といった鉄道各社の戦略や思惑がわかる(らしい)。この本では「京王・西武・東武」の3社が取り上げられている。

 

 「京王」のパートに井の頭線延長計画が書いてあるかというと、そう簡単な話ではない。ヒントと思われる記述は「西武」のパートにあった。

 

西武鉄道のややこしい歴史

 

 同書によると西武鉄道は、現在の西武池袋線にあたる「武蔵野鉄道」と、「かつて所沢~都心間で熾烈な乗客争奪戦を繰り広げたライバル会社」の「(旧)西武鉄道」が、昭和20(1945)年に合併してできたという少々ややこしい歴史をもつ(合併当時の名称は「西武農業鉄道」)。

 

 さらにこの「(旧)西武鉄道」の始まりは、甲武鉄道=旧国鉄中央線系列の「川越鉄道」である。明治27(1894)年創業(国分寺~東村山間)で、明治45(1912)年創業の「武蔵野鉄道」より古い。

 

 明治期、飯田町(現在の飯田橋の近く)から国分寺を経由して川越までという直通列車があった。掲載された明治31年の時刻表を見ると、飯田町を午前10時に発つ列車は午後12時10分に川越に着いている。意外に速い ?

 

 ちなみに現在の西武鉄道は「川越鉄道」を自らのルーツと考えていないらしく、同鉄道の創業記念行事は「武蔵野鉄道」の創業からカウントされているようだ。

 

 要するに、西武池袋線と西武新宿線、さらには西武国分寺線、西武多摩湖線はもともと違う会社だったということである。東村山周辺を、西武新宿線、同国分寺線、同多摩湖線が入り組んで走り、不採算路線云々の声も聞かれた。その背景にはこういう事情があった。

 

 

吉祥寺~田無 経路の仮説

 

 さて、幻の路線に戻る。ヒントは「川越鉄道」にあった。

 都心へ直通する「道」を模索していた「川越鉄道」は、大正5(1916) 年、「村山軽便鉄道」が持っていた「箱根ヶ崎(現東京都瑞穂町)~東村山~吉祥寺」という路線の免許を取得した(p112)。その路線の地図を下に引用する。これも計画だけに終わった路線と考えられるが、吉祥寺から田無を経由する経路が描かれている。これが、井の頭線が北に延長される場合の路線ではないか、というのが仮説その1=経路①である。

 

地図1 ※引用にあたってのキャプション前掲書pp120-121より。
大正4年の公文書に添付された武蔵野鉄道および関係鉄道の略図 輯成1:200,000「東京」明治39年(1906)修正版に記入されたもの(国立公文書館蔵)。手書きの文字で「村山村山軽便鉄道」とある

 

 しかし、これでは吉祥寺~田無まではいいとしても、田無~東久留米が説明できない。
 そこで次の仮説をつなげたい。キーワードは「中島飛行機」である。

 

「中島飛行機」の工場を起点に考える

 

 田無近辺には、第2次大戦中「中島飛行機武蔵製作所」(Aとする)と「中島航空金属」(Bとする)という戦闘機のエンジンを造っていた2つの工場があった。このため現在の西東京市と東久留米市周辺は米軍による空襲に標的になっていたのだが、このことについては別の機会に触れたい。

 

 Aは武蔵野北高校と隣接する公園あたりの広大な敷地で、先の「村山軽便鉄道」のルート上に位置している(Aも引込線で武蔵境や三鷹につながっていたのだが、この件は混乱するのでここでは割愛して、本稿末に注記する)。

 

 Bはいまの田無病院や住友重機械工業あたりからひばりが丘団地にも及ぶこれまた広大な敷地を持ち、引込線によって西武池袋線の東久留米につながっていた。

 

 第2の仮説は、東久留米と「中島航空金属」(B)を結ぶ引込線が、井の頭線延長の道筋ではなかったか、というものである(経路②)。

 

 東久留米とBを結ぶ引込線については、「廃線跡」が「たての緑地」という遊歩道になっていることもあり、地元では比較的知られている。

 

 前出の『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』では次のように解説されている。

《中島航空金属の田無製造所は昭和一四年(一九三九)に荻窪の工場から分かれて設置されたもので、…中島飛行機武蔵製作所(注:A)で製造された飛行機のエンジンをここ(注:B)に運び、テストなどが行なわれていたという。東久留米駅から工場まで引込線が建設された(注:一九四四年敷設)。》(p162、下線は引用者)

 

 この引込線跡は、2014年に東久留米市指定旧跡に指定され、市教育委員会発行の『東久留米の戦争遺跡』(山﨑丈著、2019年) で詳しく解説されているので参照してほしい。市のホームページでも読める(「くるめの文化財」2014年11月 第28号)。

 

写真1 『光の交響詩』(東久留米市教育委員会発行、2000年)p112より 昭和31年東久留米駅上空 引込線がはっきり見える

地図2『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』p163より
1:10,000「前沢」昭和26年測図 左上が東久留米駅、左手下方に引込線が分岐する

 

経路③は?

 

 しかし、これでも足りない。東久留米~B (経路②)吉祥寺~A (経路①)は説明がつくものの、①と②の間がいわばミッシングリンクとなっている。

 

 この問題を解決するのが、中島飛行機の2つの工場をつなぐ軽便鉄道の存在である(経路③)。

 

 西武柳沢駅と田無駅の間、青梅街道と西武新宿線が交差するところに大ガードがある。そのすぐ東側には、鉄道の土手にひじょうに小さなガードが穿たれている(写真2)。何のための「通路」なのか不思議な存在だが、これこそ軽便鉄道の存在を証明する「廃線跡」で、2つの工場をむすぶ鉄道を通すためのガードだったのである。

 

 先の『東久留米の戦争遺跡』には米軍作成の地図(地図3)が掲載されていて、ここにも軽便鉄道の存在が示されている。その説明文に「中島航空金属の工場中央部から南下する鉄道は、中島飛行機武蔵製作所と田無試験場を結ぶ軽便鉄道(線路幅700㎜)で、軌道が確認できる唯一の地図です」とある(p24)。

 

写真2

地図3

 

 では、軽便鉄道の経路(③)は ?
 ずばりの答えを、保谷市(当時)住吉公民館館長の伊藤鐡男氏が出している。「幻の鉄道が見えてきた―中島飛行機武蔵製作所の簡易鉄道」というエッセイがそれだ (「多摩のあゆみ」79号、1995年5月)。

 

 伊藤氏はこの鉄道の沿線住民からの聞き取り調査を行ない、経路を確定させ、その経路図も掲載している(地図4、初出は「ほうや公民館だより」(平成5年[1993]7月20日)。

 

地図4

 

 これでつながった。

 吉祥寺から「村山軽便鉄道」の免許のルートで「中島飛行機武蔵製作所」あたりまで経路①、ここからは軽便鉄道で「中島航空金属」へ経路③、そして引込線で東久留米駅へ経路②。
 これが吉祥寺から東久留米へ幻の井の頭線、延長ルートだったと考えたい。

 

 

(注)戦中、中島飛行機武蔵製作所と中央線は、引込線で武蔵境と結ばれていた(「中島飛行機武蔵製作所と田無」田無市立中央図書館編、1979年)。戦後、この工場の跡地には1951年に野球場が作られ、プロ野球が行なわれたこともあった。先の引込線も再利用され三鷹と結ばれていた(通称「武蔵野競技場線」)。この廃線跡は「グリーンパーク遊歩道」となっている(『写真と地図で読む!知られざる軍都多摩・武蔵野』洋泉社MOOK、2005年)

 

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