「電柱折れ、家は傾きつぶれ」「余震の恐怖で一週間野宿」 田無、保谷の関東大震災 柳沢図書館が講演会

投稿者: カテゴリー: 環境・災害 オン 2023年6月25日

 西東京市の柳沢図書館は6月18日、併設の公民館で講演会「関東大震災と東京」を開催。西東京市在住で東京学芸大学名誉教授の石井正己さんが約2時間にわたり講演した。今年は関東大震災から100年、首都直下型地震も警戒されるなか、当時の田無、保谷はどのような状況だったのかなど、約30人の参加者が聞き入った。

 

講演会資料

火災地図や『田無市史』などの講演会資料

 

 石井さんは民俗学者、国文学者で、『遠野物語』などを著した柳田国男の研究や、『文豪たちの関東大震災体験記』など多数の著書がある。東日本大震災の前に岩手県遠野市の図書館長を務めていた際、釜石市や大船渡市で、かつて三陸を襲った津波の話もしていたという。だが、「それであの震災のとき、人々の命を救えたのかというと忸怩たる思いがある」と述べ、「自分の知っていることはちゃんと社会に広めて知っていただくことが大事」とこの日の講演会への思いを語った。

 関東大震災は、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生。相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7・9の地震で、東京では全壊・焼失家屋57万戸余、死者・行方不明者10万人余、罹災者総数340万人余の爪痕を残した。

 石井さんは、改造社が1924年に刊行した『大正大震火災誌』の地図などを示しながら東京市内の火災発生地点や、逆に火災を免れた地域などをたどり、「東京の火災は地形に追うところが大きい。低地の下町が焼けつくされ、台地の山の手はほとんど燃えていない。さらに西にある武蔵野台地の現在の西東京市あたりはかなり地盤が強く、地形上安心して住めるということがわかる」などと説いた。

 

講師の石井正己さん

西東京市在住27年という講師の石井正己・東京学芸大名誉教授

 

 その保谷、田無周辺の当時の状況について、石井さんは『保谷市史』(1989年)、『田無市史』(1995年)などをもとに説明。『保谷市史』では、北多摩郡の被害について「死者二名、行方不明二名、重傷二名、軽傷四名で、建物の全潰六三世帯…焼失世帯は一戸もなかった」など「東京百年史」のデータを引用。保谷村の被害状況についての記録はなく、田無署管内の被害(9月1日夜調査)として「倒壊家屋七棟、重傷者一、軽傷者三、其他物置・土蔵等の崩壊極めて多く調査中なり、火災なし」とあった。

 『保谷市史』では、当時小学5年生の少年の話で、自宅で昼食をすませ、「ゴーという大風が吹いてきたような音がした」後、家が大きく揺れ出したため、「外へとびだして、夢中で走った」「オジイさん、オバアさんは家の外で歩けなくなって、しゃがみこんでしまっていた」「家の方を眺めたら、店倉から土煙りがたって壁がハガれていた」などの証言を紹介した。

 『田無市史』でも「幸いに火災や死傷者がなかったよう」としているが、『古老の語る田無町近世史』からの引用で、「青梅街道沿いの電柱が折れ、電線が波打ち、屋根瓦は煙をあげて落下し、家は傾きつぶれて、人びとがあちこちに逃げた」、『田無のむかし話』からは「地震が起きると風がワーッと起こり、桑畑がグワーッと音を立ててなびいた」様子も記されている。当日は、田無の総持寺で施餓鬼会が開かれる日で、その準備や参拝客をあてこんだ露天商で境内がにぎわっていたが、地震で施餓鬼会が中止となったことも伝えている。

 両市史とも、余震の恐怖についてもふれ、「あの恐ろしさは体験したもんでないとわかんないよ」と田無の消防団分団長のコメントも登場。石井さんは「ひっきりなしに起きる余震で家屋が倒壊するのを恐れて、竹ヤブや裏山などで一週間ぐらい野宿していた」と解説する。避難は余震と同時に、夜になると「朝鮮人が襲ってくる」という市内と同様の流言飛語の影響もあり、その対応をめぐり過激化するなど、「デマやうわさがどんどん膨らんでいった」。

 東京の東から避難する人々が連日、徒歩で田無を通過していったが、9月5日に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が復興すると、鉄道で保谷などに避難してくる人が激増したという。それに伴い、日用品や食料品が欠乏する事態も発生。石井さんによれば、①余震②流言飛語③日用品・食料品の欠乏―の恐怖に襲われていた。一方、「これを機に東京市内から郊外に移り住む人が増えた。農村地帯の保谷にも人が入ってきて、住宅ができ、商業化工業化が始まっていく、その流れを加速したのが関東大震災。被害は少なかったが、その後の地域に与えた影響は大きかった」との見方も示した。

 

講演会全景

地域の被害状況など、参加者たちは固唾をのんで聞き入った

 

 講演会では、大正の作家たちの震災体験なども紹介。里見弴が同年12月に大阪に行った際、すでに震災の話に冷めていて、「3カ月で風化が始まっていた」、岡本綺堂の知人たちが震災後1年以内に急性の疾患で次々と亡くなった話に、「今でいう災害関連死ではないか」と指摘。また、武者小路実篤の留守宅で足が不自由な母親を実篤の友人たちが避難させた様子に、「高齢者の災害時の避難」など、「気づきがいっぱいある」とも。

 講演を聞いた自営業の60代女性は、「防災面はもちろん、田無や保谷でも流言飛語があったなど、一つ一つ拾っていくといろいろな影響もあったと知り、学びがありました」とうなずいていた。

 講演後、石井さんはひばりタイムスの取材に「関東大震災では西東京は被害が少なく、自分自身の問題とは考えにくいと思うが、昔はどうだったのか、当時の人々は何を考えたのかを知り、100年後の今置かれている状況を考えることは大事。昼間は仕事をしたり、学校に行ったり、都心にいることも多く、そういう意味でも無関係ではいられないでしょう」と話した。
(倉野武)

 

【関連情報】
・関東大震災100年~災害を振り返る 防災を考える~(西東京市図書館

 

倉野武
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