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看板

書物でめぐる武蔵野 第12回 大泉学園にもマンガ家の「梁山泊」が……

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年9月23日

杉山尚次(編集者)

 ちょっと前のことになるが、意外なところで「大泉」の名前を目にした。
 少女マンガ家・萩尾望都の『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)である。この本が4月に刊行されると、5月の「東京新聞」の匿名コラム「大波小波」が、続けざまに取り上げた。「もう一つの聖地の真実」(5.12)、「「大泉サロン」の亀裂」(5.19)。なにやら意味深である。(写真は、大泉学園駅北口にある看板)

 

アニメやマンガの「聖地」

 

 大泉学園は、アニメやマンガと関連深い。大泉学園駅の発車メロディが、劇場版『銀河鉄道999』のテーマ曲であることはよく知られている。これは作者の松本零士が大泉在住で、なにかとこの地に肩入れしていることによると聞く。池袋線ではメーテルほか『銀河鉄道999』のキャラクターがラッピングされた車両が走っていたことがある。

 

メーテル像

北口通路のメーテル像

車掌

改札近くにある「999」の車掌

 

 また、この地には東映の東京撮影所とその関連の東映動画があり、ここで日本初のカラーのアニメ映画『白蛇伝』が制作されたことは、広瀬すず主演のNHK朝ドラ『なつぞら』で取り上げられ有名になった。大泉学園駅の北口の通路には、関連作品のパネル展示やキャラクターの銅像が置かれ、「アニメの街」であることを主張している。

 そもそも西武池袋線はマンガ家と縁がある。これは、手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが集団で暮らした「トキワ荘」が椎名町駅近辺にあったのが大きいだろう。豊島区はじめ地域は、こぞって「トキワ荘」を街おこしの材料にしようとしている。

 ちなみ椎名町駅の発車メロディは、藤子不二雄Ⓐの「怪物くん」。なぜそうなのかは知らない。「鉄腕アトム」は虫プロがあった高田馬場駅が使っているので、手塚モノは使えなかったのか?

 それはさておき、「トキワ荘」に集っていた大御所たちの多くが、その後も西武線沿線に住みつき、当初大御所のアシスタントをしていた人がマンガ家として一本立ちし、この沿線に住む……というかたちで、この沿線にマンガ家が増えていった、と想像できる。

 

竹宮惠子にとっての「大泉サロン」

 

 「大泉サロン」というのは、70年代の初頭、「24年組(昭和24年生まれ)」と呼ばれる同世代の少女マンガ家である竹宮惠子と萩尾望都が駆け出しの時代、二人で共同生活を送り、そこに若いマンガ家やアシスタント、ファンなどが入れ代わり立ち代わり入り浸っていて、それが2年ほど続いた状態を指す。「サロン」というのは、外国を舞台にしたマンガ世界を描く二人に合わせた、いかにもなネーミングだ。

 「大泉サロン」の一方の主人公は竹宮惠子である。彼女はマンガ家になるために徳島大学を中退して上京すると、担当の編集者の紹介で敬愛する石ノ森章太郎の仕事場があった練馬区桜台に住んだ。竹宮は10代でいきなりメジャーデビューしている。石ノ森のアシスタントとなって下積み修業したということではない。〝偶然を装って〟近所の喫茶で遭遇し、声をかけてもらうというような接触はあったようだが。

 (※竹宮には自伝が二つある。ひとつは2016年の『少年の名はジルベール』、もうひとつは2021年の『扉はひらく いくたびも―時代の証言者』[聞き手/知野恵子、中央公論新社]。竹宮の自伝的事実や発言については『扉は…』によった)

 

 この後、竹宮は萩尾望都と出会い、意気投合する。そして、もうひとりのキーパーソン増山法恵(マンガ原作者)も加わって、「大泉サロン」の形成にいたった。

 それは1970年秋のことだった。竹宮が萩尾を誘うかたちで同居が始まった。増山が、大泉の自宅の前、「キャベツ畑のそばにある築30年のおんぼろ長屋」を共同生活の場所として紹介している。つまり、増山がいなければ「大泉サロン」はなかったということになる。

 増山は才気煥発、文学や芸術にも通じていて、二人に多大な影響を与えたようだ。萩尾の本によると、やがて増山と竹宮は強くむすびつくようになっていった。

 また増山は戦略家で、「大泉サロン」に少女マンガ界の「トキワ荘」というイメージを重ねていたという。積極的に人を呼び、「いつも誰かしら来ている」状態となった。「ちょうどあの時代は、共同体的な暮らしがはやっていました」(p68)と竹宮が書くように、まさに「梁山泊」の様相を呈していた。

 「大泉サロン」は開放的ではあっただろうが、その深部には同居していた竹宮と萩尾に増山を加えた、三人の濃密な人間関係があったようだ。傍からみると、この濃密さが「大泉サロン」を崩壊させたんだろうなと思う。

 やはりというべきか、「一つ屋根の下に作家が2人もいて、うまくいくはずがない」と共同生活に大反対していた担当の編集者が予想したとおり、その生活は長続きせず2年ほどで終わった。

 創作でスランプを感じ、共同生活にもストレスを感じていた竹宮が、萩尾に同居の解消を告げ、「大泉サロン」も消えた。

 竹宮は正直に書いている。「萩尾さんに対して嫉妬や焦り、劣等感を感じていたのかもしれません。いや、私が過剰反応していた、一人相撲をしていたのでしょう」(『扉は…』p90)。

 そして同居解消から半年ほどたって、「萩尾さんに『距離を置きたい』と伝えました。以来、萩尾さんとは没交渉です」(同p92)と述べている。淡々と書いているが、要するに絶交した、ということだ。

 

萩尾望都の言い分

 

 一方の萩尾は、「距離を置きたい」と言われたこと、つまり絶交の宣告に大変な衝撃を受けた。いろいろ思い悩み、心身に変調を来し、埼玉に引っ越しもした。それ以後萩尾は、竹宮の二つの自伝はもちろん、決別以降のすべての作品を読んでいないという。それくらいショックだったということだ。

 であるがゆえに、大泉時代のことはほとんど誰にも話すことなく、封印していた。それが、2016年の竹宮の自伝刊行以降、竹宮との関係を執拗に聞かれるようになった。ドラマ化まで提案されたという。

 たしかにそうだろう。少女マンガ版「トキワ荘」は魅力的だし、いまや大家となった若い二人に青春特有の葛藤があったなら、ますます興味がそそられるのは必定だ。

 だが、萩尾にとってそういう事態は耐え難いことだった。それを解決し、その記憶を再び「永久凍土」に封じ込めるには一度だけ話すしかない。それが『一度きりの大泉の話』となった。

 萩尾はこの本の前書きで、「人生にはいろんな出会いがあります。/これは私の出会った方との交友が失われた、人間関係失敗談です」と書いているように、誰かを非難するようなトーンはない。「竹宮先生」と書くように、慎重さと配慮を感じさせ、自省もこめて語っている。だから裏話的(スキャンダラス)な陰湿さはない。SNS全盛時代である昨今の殺伐とした非難の応酬、品性下劣な言語空間ではない。

 とはいっても、決別にいたる経緯については、決定的なことが語られている。

 同居を解消したのち、萩尾は、竹宮と増山に呼び出され、『小鳥の巣』などの作品について詰問された(竹宮は増山と一緒だったとは書いていない)。そして「あなたは私の作品を盗作したのではないか?」と言われたようだ。これは、萩尾にとって全存在を否定されるような出来事だったろう。

 萩尾は、増山と竹宮の二人は「少女漫画革命」(少女マンガのレベルを上げ、その評価を上げる)を目指していた、と語る。当初二人は自分を引き込んだものの、やがて思いを純化させていき、「気がつくと、(萩尾が)邪魔な存在になっていた」(『一度きりの…』p269)。そして「距離を置きたい」=全否定へと至った。

 「(二人のことは)何も聞きたくもないし、何も言いたくない」(同p173)と萩尾が語るのは、わかる気がする。が、これは萩尾の一方的な言い分だ、ともいえる。

 こういう話に揺るぎのない「真実」はあるのだろうか。関係がこじれてしまうのはお互い様だし、「言った、言わない」になると、永遠に決着がつかない。本当の悪者はいないのだ。ファンは残念だろうが、この二人が和解することはないだろうと思う。

 

濃密な共同体的空間

 

 筆者は、この2冊を人間関係の劇を観察する本として読んでしまった。
 では、それだけの本かというと、もちろんそんなことはない。ファンは代表作のメイキングとして楽しむことができるだろう。どちらの本にも共通するのは、創作することの深部にふれる感覚があることで、いろいろなジャンルのクリエイターにとっては刺激となるはずだ。

 竹宮は、京都精華大学にマンガ学部を作り、同大学の学長にもなっている。マンガを教育する立場から、マンガをめぐる現状と可能性についても語る。「マンガなどの知的財産は、保護するだけでなく、利用推進とのバランスをはかっていくことが重要」(『扉は…』p185)といった興味深い提言も盛り込まれている。

 とはいうものの、この人間模様はドラマになる。「トキワ荘」は映画になっているが、「大泉サロン」もアレコレ設定を変えれば可能ではないか(当人たちのOKは出ないだろうが)。

 竹宮と萩尾は前述のように「24年組」と呼ばれ(ほかに大島弓子、青池保子、木原敏江、山岸凉子、ささやななえこ、など)、いわゆる「団塊の世代」でもある。「革命」といった熱い理念。70年代初頭、同じ志を持つものが集う濃密な共同体的空間。二人の作品にも登場し、盗作云々の問題となった「寄宿舎」も共同生活だ。そして凄まじい人間関係という結末。「大泉サロン」は「連合赤軍」とも時代を共有していることに気づいた。

「若者たち」

若者たち」の表紙

 もうひとつ、同時代を描いた作品を思い出した。こちらはテイストがまったく違う。
それは永島慎二のマンガ作品『若者たち』(1973年、双葉社)だ。主人公はアシスタント仕事で食いつないでいる青年マンガ家。時は68年秋、阿佐ヶ谷にある主人公の安アパートのひと間には、売れない画家、自称詩人、作家、歌手志望などが転がり込み、共同生活を始める。「サロン」どころではない大貧民生活が続く。劇的なことは起こらない非マンガ的展開。だが「青春」の一場面ではある。共同生活の楽しさはあるものの、何となく行き詰まり感のある時間が流れ2年ほどが経過した。主人公はこのままではいけないと決心、「みんなこの部屋から出てってくれ!」と告げた。そして、一人になった主人公。仕事がはかどるはずが、こころの中には風が吹いていた……という内容だ。

 これが74年、『黄色い涙』というタイトルで、NHK「銀河テレビ小説」のドラマになった。脚本は市川森一。主演のマンガ家が森本レオ、画家が下條アトム、小説家が岸部シロー。主題歌は小椋佳が佐藤春夫の詩にそのまま曲をつけて歌った「海辺の恋」。オンエア当時、筆者は高校1年生だったのだが、このドラマにドハマりした(マンガは後から読んだ)。このマイナーな感じで生きていくことに共感してしまったのだ。恥ずかしながら、こういう指向性はいまもあまり変わっていないと思う。

(『黄色い涙』は2007年に、「嵐」のメンバー主演で映画化もされるが、その脚本も市川森一だった。この映画についてはコメントしない)。
※駅名の由来等、まだ書きたいことがあるので、次回も「大泉学園」です。
*この連載のバックナンバーはこちら>>

 

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