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深大寺本堂

書物でめぐる武蔵野 第14回 深大寺といえば蕎麦、ではなく

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年11月25日

 奇特なことに、この連載を仙台で読んでくださっている大学の先輩が、「『深大寺の白鳳仏』という本があるけど、取り上げないの」というメールをくださった。「いかん、ちょっと前に書評を見た気がする、ど真ん中のテーマだ」とひとち、読んでみることにした。(写真は、調布市深大寺元町の深大寺本堂)

 

かなり変わった本

 

 貴田正子著『深大寺の白鳳仏―武蔵野にもたらされた奇跡の国宝』(2021年6月、春秋社)は、かなり変わった本だと思う。

深大寺の白鳳仏

『深大寺の白鳳仏』(amazon

 著者は元新聞記者のノンフィクション作家。なので取材を得意としている。本書も取材によって歴史ミステリーの謎を解く、というスタイルをとる。

 「白鳳仏」とは何か(今から1300年以上前から始まり、なかでも奈良・新薬師寺の「香薬師如来立像」、東京・深大寺「釈迦如来倚像」、奈良・法隆寺「夢違観音像」は「白鳳三仏」と呼ばれ、著者はこの三仏に強く惹かれていることを語っている。

 三仏ともに「国宝」なのだが、新薬師寺の「香薬師如来像」だけは「旧国宝=重要文化財」となっている。なぜかというと、この仏像はもともと国宝だったものの、三度盗難に遭い、ほとんどが行方不明になっているからだ(「ほとんど」に下線をした理由は後で述べる)。

 この三仏は成立から今日にいたるまでいろいろな謎を秘めている。本書はそうした謎について、あるときは仮説を立てながら推理していく。その推理過程の試行錯誤まで記述しているのが特徴といえる。

 まず、この三仏は畿内の同一工房の作で、近い時期に制作された可能性が高いことが示される。つまり、深大寺の像は武蔵国で作られたのではなく、当時の中央からやってきた、ということになる。

 そして、新薬師寺の「香薬師如来立像」について。この像はいまだに行方不明のままだが、盗難を免れた右手だけが紆余曲折の末発見され、現在、その右手は新薬師寺に戻った。仏像の探索には著者も関わり、その経緯は同じ著者の『薬師寺像の右手』(講談社)にまとめられた。

 さて、ここからがこの本の謎解きの本番となる。

釈迦如来倚像

写真は、深大寺の釈迦如来倚像

 メインテーマは、なぜ国宝の仏像が、中央から遠く離れた武蔵野の深大寺にある(移された)のか、である。

 その結論を紹介すると、歴史ミステリーである本書のネタバレどころか、核心をかすめとってしまうので、遠慮したい。

 この本のおもしろいところは、前述のとおり、試行錯誤の舞台裏まで公開しているところにある。推論の過程もさることながら、先の「右手」発見では、著者の夫が謎解きの手助けをしたかと思えば、のちに離婚したエピソードまで挟み込まれている。なんとまあ、正直な。また、仏像愛がハンパない。像に敬語を使っているのは、信仰がある人は当然として、仏像ファンにとっても当然のことなのだろう。「仏」は「ブツ」ではないのだ。

 

高倉(高麗)福信

 

 ここでは、武蔵野に関係の深い深大寺の由来に限定して謎解きを紹介したい。

 キーパーソンは高倉福信という奈良時代の高官。渡来系である。この人物が中央と深大寺をつなぐ役割を果たしていて、全体のテーマにも大いに関与する。

 この高官の業績がすごい。756年に武蔵守という役職に就くと、もたもたしていた武蔵国分寺の造営を翌年に完成させた。758年、武蔵国に帰化した新羅僧ら74人を移住させ「新羅郡」を置いたのもこの人物だ。二度目に武蔵守になったときには、武蔵国の東山道から東海道への移管もおこなっている(771年)。

 福信は789年に80歳で没するまで、聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁-桓武という6代の天皇に仕えた。この間、「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂の乱」「道鏡事件」など政変がたびたび起こっているが、一度も失脚していない。立ち回りのうまさも際立っている。

 もともと福信は709年、武蔵国「高麗郡」の生まれ。祖父福徳は高句麗王の後裔にあたり、高句麗が唐・新羅によって滅ぼされたとき(668年)、日本に亡命してきた。つまり、福信は草深い田舎出身の渡来三世ということになる。「相撲人」=力士として認められたのが出世のきっかけだったようだ。それが政府高官に登りつめたというわけだから、大変な出世である。晩年には渡来系という出自がわかる「高麗朝臣」から、願い出て「高倉朝臣」に改姓している。ここに微妙なものを感じないでもない。

 645年の大化の改新クーデター以降、大和政権は律令制度を採り入れ、「日本」という国家の体裁を整えていく。同時に中国大陸と朝鮮半島の政治状況の影響をもろに受けている。「渡来人」や福信の祖父福徳のように「帰化」した人たちの地位はどういうものだったのだろう。知識人や技術者として厚遇されたのだろうか? 今日のような「差別」はなかったのか? 興味深いところだが、深大寺の由来に移ろう。

 

深大寺の創建は?

 

 深大寺というと「深大寺蕎麦」が有名で、地名にもなっているが、立派な天台宗の寺が存在している。8世紀の開創、都内では浅草の浅草寺に次ぐ古刹だ。

 深大寺の『真名縁起』によると、寺を開いたのは満功まんくう上人。著者はこの満功上人を、先の渡来系福信の一族ではないかと推定する。

 福信の父がポイントとなる。父の名は「福光」という。著者はこの人物を、先の縁起に出てくる「福満」に同定する。福満は「ふくみつ」と読めるからだ。

 この福満(福光)が若いころ、狛江(ここも高句麗と縁が深い)の娘に手をつけ、子どもを産ませた。この子が満功上人となり、深大寺を創建する、というストーリーが描けるというのである。つまり満功上人と福信は異母兄弟であり(少なくとも渡来系の一族 p202)、深大寺と中央をむすぶ太いパイプはここにあるというわけだ。そしてこれが、白鳳仏が深大寺にもたらされた背景となっている。

 もうひとつ、この本独自の見解がある。深大寺の創建年についてだ。二説ある。ひとつは、先の文献『真名縁起』(江戸時代の文献)の説をとって733年とする。深大寺の公式サイトほか、素人目にはこちらが定説のように見える。しかし、本書は『私案抄』という『真名縁起』より古く、室町時代に書かれた文献のほうが信頼性が高いとして、762年説を採用している。というのも、そうしないと満功上人が深大寺を創建した年齢が若すぎるのだ。このことも、正直に書いているところが面白い。

 通説がやがてひっくり返されるのか、そのへんは、今後の歴史が判断する、ということになるのではないか。

 

不動の滝

写真は「不動の滝」。国分寺崖線に存在し、創建のときから水と縁の深い深大寺には滝がある。滝の右上に不動明王

 

『比ぶ者なき』藤原不比等の物語

 

比ぶ者

『比ぶ者なき』(amazon

 さて、先の高倉(高麗)福信の出世物語をたどっていて、どこかで似た話を読んだのを思い出した。昨年(2020)文庫になったので読んだ馳星周の『ならぶ者なき』(中公文庫)である。

 主人公は藤原不比等。時代的に「白鳳仏」と重なる歴史小説だ。信頼している読書人がこの作品を推していたので、96年歌舞伎町を舞台としたハードボイルド小説『不夜城』で小説デビューした馳が「なぜ古代史?」と思いながら読んだ。

 なぜ古代史なのかはわからなかったが、面白かった。活劇はない。淡々と出来事が刻まれていくのだが、政治劇なのだ。権力内の争いはドラマになる。かつては『自民党戦国史』(伊藤昌哉)なんていう本もあったが、[戦記・歴史小説・ヤクザもの]から活劇を引いた[ビジネスもの]に近いテイストといったらいいだろうか。

 不比等がなしたのは、『日本書紀』を編纂させ、「高天原」「天孫降臨」「万世一系」という天皇の神話=物語をつくり、天皇を神にすること。その物語を支配の核としたことだ。また、度重なる政変のなかで一度も失脚せずに出世を遂げ、天皇家の外戚になり、藤原家の永続を図ったというのが、この小説が説くところになろうか(この小説の歴史的なベースは、歴史学者・大山誠一説であることが、付録のマンガ家・里中満智子との対談で明かされている)。

 武蔵国出身の福信の話は、藤原不比等のミニチュア版のように思えた。

 もうひとつ、この小説が『深大寺の白鳳仏』と直接関係する部分がある。

 不比等は、天皇側近の女性・橘三千世を強引に妻にする。いまでいう「略奪婚」だが、小説では三千世は有能なパートナーとして最後まで登場している。不比等は、三千世との間にできた娘を聖武天皇(自分の孫)に嫁がせ皇后にする。これが光明皇后なのだが、この皇后が例の白鳳仏とも深く関わっている。それだけではなく光明皇后は夫の聖武天皇とともに、件の福信を寵愛していた、というのが『深大寺の白鳳仏』の見解なのである。

系図

系図参照(『比(なら)ぶ者なき』より)手書き数字は天皇名とその代を示す。左下に安宿媛=光明皇后

 

 ここが、白鳳仏が武蔵国にもたらされたポイントなのだが、これ以上は本を読んでいただこう。

 

まさに観光地

 

 ここまで書いて、やはり深大寺を訪ねてみようと思った。晩秋の休日の午後、境内の前を横切るかたちの「深大寺通」にはいると、一瞬地方の名所にいるような気になった。「東京」の風景ではないのだ。

 

梵鐘

重要文化財の梵鐘

紅葉

葉も色づき始め、かなりの人出

 

 紅葉の季節、七五三、コロナが一段落していることもあり、寺と蕎麦屋が立ち並ぶその周辺は、かなりの人でにぎわっている。なるほどここに行けば、ちょっとした旅行気分になれる。『江戸名所図会』に載るだけのことはある。昔も現在も、この地が田舎風の「観光地」であることを実感した。

 

名所図会

『江戸名所図会』の「深大寺蕎麦」
本図を引用した『江戸名所図会を読む』(川田壽著、1990年、東京堂出版)によると、蕎麦は当地の名産とされているが、江戸時代からそれはかなりアヤシイという説明がされているようだ。僧侶が檀家と話している図。外に見える川は国分寺崖線の傍を流れる野川とのこと

 

 ちょうどこの日は、深大寺が205年ぶりに「元三大師像」の胎内仏だった「鬼大師像」を公開する期間にあたっていた。この仏像は鬼の姿をしていて、コロナ禍の終息を願っての公開ということで、境内は猛烈な行列ができていた。

 筆者はこの行列に恐れをなし、そそくさと退散したのであった。

 *この連載のバックナンバーはこちら>>

 

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