滝山団地

書物でめぐる武蔵野 第26回 ひばりが丘 & 滝山団地・異聞

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2022年12月22日

 前回、1960年に当時の皇太子夫妻がひばりが丘団地を視察したことを述べ、団地生活の広告塔のような効果を果たしたことに触れた。ではなぜ、このとき皇太子夫妻は団地を訪れたのだろうか? もちろん当時、ひばりが丘団地が日本一大きい団地だったからだろうが、ちょっと違う側面について考えてみたい。(写真は、冬色の滝山団地。筆者撮影)

 

「日本株式会社」の住まい

 

 団地が急激に増殖していく時期は、日本の高度経済成長期に重なる。経済最優先、官民が一体となり、国民生活を巻き込みながら経済成長のシステムが形成されていった。これはある種の総動員体制であり、「日本株式会社」といういい方もされた。このとき顕著になった集団主義的な国民性は、過去も現在も日本社会の特質となっている。

 このシステムは、戦後に突然生まれたのではなく、実はベースがあった。ベースというのは、戦前の国家総動員体制(1940年第二次近衛内閣)のことである。ドイツやイタリアでも採用されたこの「国家(国営)社会主義」は、第二次世界大戦でアメリカの「国家資本主義(ニューディール政策)≒ 国家社会主義」とソ連の「国家(国有)社会主義」と戦い、敗北する。第二次世界大戦は「全体主義と民主主義」の戦いという解説がされることが多いが、標榜する理念が違うだけで、どちらの陣営もベースには国家による社会統制があった、つまり「国家社会主義」同士の戦争だったという考え方もある。社会はいつでもどこでも「全体主義化」しやすい、ということだろう。

日本人の哲学

鷲田小彌太『日本人の哲学3』

 さて敗戦で、日本では軍部や内務官僚は解体された。しかし、大蔵・商工(通産)の経済官僚は生き残った。彼らは戦後復興から経済成長の司令塔となる。戦時中に設立された営団金庫、食料管理等々の国家=官僚統制システムの多くも、同じように生き残っていて、高度経済成長を支えることになる。つまり、日本の高度経済成長には、多分に総動員体制=国家社会主義的な側面があるということになる(この議論は、鷲田小彌太『日本人の哲学3』「経済の哲学」第2章第2節「国家社会主義」によるところが多い)。

 ということは、経済成長を支える国民の団地ライフは、まさに国策だった、といってみたい。文字通りの錦の御旗が「皇太子夫妻」だったというわけである。
 国策の「日本株式会社」の成長は続いていった。

 

「憧れ」はやがて…

 

 しかし、団地生活が「憧れ」だった時代はどれだけ続いたのだろうか。高度経済成長の60年代である。この時代、右肩上がりで生活は良くなったはずだから、「憧れ」がフツーになるのも早かっただろう。73年のオイルショックあたりまでではないだろうか。

 団地は大型化しながら増えていった。なかなか抽選に当たらないという稀少価値もだんだん下がっていったに違いない。ひばりが丘団地の近隣でいえば、62年に東久留米団地が、さらに68~70年に滝山団地ができ、それらを抱える北多摩郡久留米町は70年に日本一大きい「町」になり、同年10月、東久留米市になることができた。団地のおかげである。

 

滝山団地

1969年、完成した頃の滝山団地、遠方に久留米西団地が見える。『光の交響詩』(東久留米市教育委員会、2000年、p72)

 

 前回集中的に取り上げた原武史著『レッドアローとスターハウス』では、西武線沿線に団地が多いのは、住宅公団と西武鉄道の不作為の連携のようにとらえられていた。たしかに中央線や西武がライバル視? した東急沿線で、団地が急増したということはなかったかもしれない。しかし、団地建設の推進は国策だったと考えると、団地がどんどん地域を広げていったのは驚くに値しない。

 集合住宅のトレンドは、71年の多摩ニュータウン約11万戸のように、急激に大型化していった。東久留米の滝山団地は3,180戸であり(ひばりが丘団地は2,714戸)、このニュータウン路線のさきがけだったということができる。

 

「わたし」の時代にもかかわらず

 

 60年代の日本の団地は、同時代のソ連の集団住宅と均質で画一的なところがそっくりだと『レッドアローと…』は述べている。旧ソ連の内実は、共産党独裁の国家(国有)社会主義である。日本の団地拡大政策が国策だとしたら、どちらも国策で住宅問題に対応しているわけで、この意味で、それぞれの団地が似ているのは当然といえば当然だろう。

 前回も述べたように同書は、団地という共同体とコミュニズムとの親和性を指摘している。「コミュニズム」を平等性の追求ととらえれば、その頃の団地生活は、家賃や住環境は均質に保たれ、貧富の差があっても可視化されず、だれもが同じような暮らしになるという意味で「コミュニズム」に近いかもしれない。

 また、住民の集団意識も強くなり、交通機関として利用せざるを得ない西武資本に対して運賃値上げ反対運動が起こるなど、権力に対抗していく側面がある。これも「コミュニズム」との親和性といえなくもない。

 こうした傾向を政治勢力が見逃すはずがない。72年の衆議院議員選挙で、日本共産党は戦後最高の38議席を獲得するのだが、その〝大躍進〟のエンジンは団地だった、と『レッドアローと…』は指摘する。60年代の「政治の季節」が終わったにもかかわらず、「革新」は伸びていたのである。

  *その後76年は17議席と大幅減、79年は39議席で最多となっている。2022年12月現在10議席。

 前述のとおり西武線沿線には団地が多い。ということは共産党支持者も多いわけで、その人たちの利便を考えたのか、あるいはそれまでの都心での開催が難しくなった理由があったのか、その頃の日本共産党の「アカハタ祭り(66年から赤旗まつり)」が、多摩湖畔で開かれていたのも(60年代から70年代の半ばまで)、それを裏付けていそうだ。

 この「赤旗まつり」にはいろいろいわくがある。67年10月8日、羽田では日本共産党と対立する新左翼がベトナム反戦をとなえて激しい闘争を繰り広げていた。同日、日本共産党とその青年組織・民主青年同盟は、「赤旗まつり」で〝歌って踊って〟路線を貫いていた――こんなふうに日本共産党は批判されることもあった。しかし、そんな批判は〝代々木〟支持者にはまったく響かなかったのだろう。日本共産党は70年代の「個人主義」の時代に、勢力を拡大していった。

 国策に違いない団地推進政策が、共産党を強くしたのは皮肉といえば皮肉だが、高度経済成長は73年のオイルショックで、停滞を余儀なくされる。社会じたいも、第三次産業の人口が多数を占め、消費が社会を動かす消費資本主義に変質しようとしていた。

富澤一誠『あの頃、この歌 甦る最強伝説』

 文化的領域も変化する。たとえばフォークソングの60年代から70年代への推移について、音楽評論家の富澤一誠は、岡林信康と吉田拓郎を対比させて次のように述べている。

 60年代を代表する岡林が「わたしたちの望むもの」と歌ったのに対し、70年代の吉田は「わたしは今日まで生きてきました」と歌い、多くの若者の心をつかんだ。これは「われわれ」の時代から「わたし」の時代への転換を意味している(『あの頃、この歌、甦る最強伝説』より)。

 いろいろな領域で〝総動員〟の時代ではなくなったのだ。

 

そのとき滝山団地には「コミューン」が存在していた

 

 にもかかわらず、世間の個人主義とは正反対、集団主義が席捲した空間があった。それは74年、東久留米市滝山団地内の小学校のことだった。著者自身の体験によりその実態を批判的に検証したのが、『滝山コミューン 一九七四』である(『レッドアローと…』と同著者、この本も前回紹介)。この「コミューン」とはどういうことかというと――、

《国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れをこめて「滝山コミューン」と呼ぶことにする。》p19

ということになる。

 上に挙げられた地域共同体の理念に問題があるとは思えない。70年代だろうが、21世紀の今日だろうが、学校の中心は子どもであるべきだし、学校という職場は、政府の意向ばかり気にする管理職が支配する場ではなく、現場の教職員の意見を採り入れ、民主的に運営されてほしいと思う。

 しかし立派な理念の追求は、往々にしてまったく逆の事態を招く。
 団地の小学校に現出したのは、民主的どころか個人を抑圧する「集団主義」教育でしかなかった。「集団主義」は、集団の方針からの逸脱を許さない。方向性に反する者や行為は、集団のみんなから指弾され、罰せられる。「問題のある児童に対する制裁措置」(p92)まであったという。これは、「連合赤軍」の暴力的な「総括」*を想起させた。

 この運動を推進する教員やそれを支持する親たち、そして子どもたちも一体になり、「民主主義」という理念の実現を目指して揺るぎない、そういう時空があったということだ。これを「コミューン」と呼ぶかどうかは、「コミューン」のとらえ方によるだろう。

 いずれにしても、集団や組織、あるいは共同体がひとつの理念を目指す場合、こういう事態はいつでも起こりうる。共同でおこなうことの内実は問われず、規範・規律だけが至上命題となる。その集団が奉ずる理念が「民主主義」だろうが、「世界同時革命」だろうが、「忠君愛国」だろうが、その構造は同じだと考える。

 *72年の「あさま山荘事件」で知られる新左翼の党派が、警察から追いつめられた末、閉ざされた空間で組織員同士で激しい批判と査問をおこない、その制裁(リンチ)で、多くの死者を出した。

 

西武鉄道沿線だからそうなった?

 

 『レッドアローと…』と『滝山…』の著者は、団地の「集団主義」を西武鉄道沿線文化とむすびつけようとしているが、それはどうだろう。

 『滝山…』はかなり話題になったので、私は東北地方に住む同級生とこの本についてメールを交わしたことがあった。その同級生は当時も東北地方に住んでいたのだが、中3だった73年、ひとりの教師が赴任してきて、唐突に集団主義教育が始め、学校中がその人間に引っ掻き回されたことがあったと教えてくれた。

 この集団主義教育は、「全生研」(全国生活指導研究協議会)の「学級集団づくり」に由来するものらしく、「全国」で流行したようだ。だから、これを団地文化にむすびつけるのは、無理筋である気がする。

 ちなみに私は、73年、滝山団地と同じ市の東久留米団地にある中学校に通学していた。そこは1学年9クラスのマンモス校で、「民主主義」ではなく「競争意識」をあおる陰気な学校だった。翌年、滝山に「コミューン」ができていたとは、想像もつかない。

 

鉄道沿線が政治意識を決定する?

 

 ところで、『レッドアローと…』のユニークな考え方は、次の一文にあると思う。

《鉄道というインフラ(下部構造)が住民意識(上部構造)を規定していることを指摘できる。》p392

 「下部構造」が「上部構造」を規定するという、まるで社会主義の教科書のようなテーゼである。「まえがき」と「あとがき」でも同趣旨のことが述べられているから、思いつきではないだろう。つまり、○○線沿線に住んでいることが、その政治意識までをも規定する、といっているのである。

 この本によると、70年代くらいまでの路線別の政治意識は、中央線沿線は新左翼、全共闘系、西武沿線は団地中心で日本共産党系ということになる。東急沿線は持ち家中心の開発だったから、やがて新自由主義の支持母体となるものだった(p385)。

 社会主義が崩壊した80年代末から90年代にかけて、団地は衰退し、西武もパッとしなくなった。一方、東急の田園都市線はドラマ「金曜の妻たちへ」の舞台となり、ちょっとハイソな街イメージとして注目を集めた(「金属バット殺人事件」の舞台でもあるが)。

 なんとも乱暴な色分けだが、『レッドアローと…』の著者は本気である。

《西武沿線に住んでいながら、新左翼や全共闘の活動を支持していた羽仁五郎は、いまや西武沿線よりむしろ中央線沿線に思想的共鳴盤を見いだしていた。》p360

 比喩的に語っているのを、こちらの都合のいいように引いているわけではない。「住んでいながら」というのは文字通りの意味であり、西武沿線に新左翼シンパが住んでいるのは珍しいような語り口である。こうなると、鉄道に「規定」されるというより鉄道「決定」論である。

 さらに、西武と東急の住民意識の違いについては、こう述べられている。

《東急沿線に住んでいるのは、分譲住宅地にせよ団地にせよ、はじめから東急沿線に住みたかった人々が多く、東急と住民の間に親和性があるのに対して、西武沿線の団地に住んでいるのは、西武沿線に住みたかった人々では必ずしもなかったから、(住民と西武資本の:引用者注) 対立関係が生まれやすかった。》p353

 地価を見れば、どちらの路線が人気があるかは明白である。だから、こういう言い方になるのだろう。西武沿線は「でも・しか」住宅地なのだ。この著者は、自分が生まれ育った西武沿線や団地について、愛憎相半ばする、アンビヴァレンツ(両価的)な思いを抱いているに違いない。だから、こういう言い草はわからないではないが、それにしても随分な論理である。

 自分の住まいを決めるのは、単純に好き嫌いだけではない。当然のことながら、さまざまな事情やしがらみが絡み合っている。それが、まったく考慮されていないことを申し上げたい。

 

滝山団地

昔とあまり変わらない現在の滝山団地(筆者撮影)

 

 ひとりの住民意識、それも政治意識は、住んでいる沿線「文化」に影響を受けることはあるだろう。だが、それだけによって決定されるわけではない。その人の来歴、家族、人間関係、経済状態、その他もろもろによって重層的に形成されている。

 「自分の考え」と思っていることも、じつは社会的な関係における「考え」と混じり合っているし、時代の変化も加味される。この意味で、意識は多様なものに規定されている。

 「西武沿線は、〝でも・しか〟住宅地である」という規定性があったとしたら、そこから逸脱するところが必ずあるはずだ。私はそれを追っていきたいと思っている。
(写真は筆者提供)

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杉山尚次
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