北多摩戦後クロニクル 第25回
1968年 小平で初めてブルーベリーを商業栽培 独自の地域ブランドに育成

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年6月20日

 6月から9月にかけて実が熟し、摘み取りの季節を迎えているブルーベリー。生食のほかアイスクリームや洋菓子にも華やかな青紫色の彩りと甘酸っぱい風味を添えるこの果実が農産物として初めて栽培されたのは1968(昭和43)年、小平市においてだった。地元農家が長年、試行錯誤して育て上げたブルーベリーを今世紀に入って産官学が一体となってPRに努め、今では小平市のシンボルともいえる特産品として人々に親しまれるようになった。

 

ブルーベリー摘み

ブルーベリー摘み(2020年こだいらフォトコンテスト金賞作品。撮影者@akko00o)

 

教え子に夢を託して

 

 「ブルーベリー」という北アメリカ原産の果物が近年、小平市の地域ブランドに加わった背景には、いくつかの巡り合わせがあった。

 日本でブルーベリー栽培の研究を始めたのは、東京農工大学の岩垣駛夫(いわがき・はやお)教授(1907~93年)だった。リンゴ栽培の研究者だった岩垣教授は米国留学中、農務省のリンゴ畑の隣にあったブルーベリー畑でその果実を食したところ、少年時代に福岡県の裏山で摘んで食べた野生種のベリーの味を思い出した。「これなら日本でも栽培できるはず」と帰国後の1954年から研究に着手した。

 低木果樹のブルーベリーは大きく分けると、寒冷地に適したローブッシュ系とハイブッシュ系、暖地に適したラビットアイ系がある。岩垣教授は64年、福島県園芸試験場場長から赴任した東京農工大の圃場でラビットアイ系の栽培を始めた。

 その時の教え子に実家が小平市で農家を営んでいた島村速雄さん(1944年生まれ)がいた。岩垣教授は島村さんに「空いた畑があったら植えてくれないか」と130本の苗木を渡した。島村さんは「敬愛する恩師のお手伝いができれば」と実家の空き畑に苗木を植えた。1968年のことだった。

 

ラビットアイ系ブルーベリー

完熟すると赤色から濃い青紫色になるラビットアイ系ブルーベリー

 

二人三脚で試行錯誤

 

 しかし栽培技術はまだ確立されていなかった。関東ローム層からなる多摩丘陵は酸性土壌で水はけの良い土質を好むブルーベリー栽培に適している。土づくりから販路開拓まで師弟は二人三脚で試行錯誤を続けた。

 当時、ブルーベリーなど誰も知らなかった。青果市場に持っていっても相手にされず「なんでブドウを房からはずして持ってくるんだ」と言われる始末だった。岩垣教授の縁で都内の果物専門店に並べてもらっても、買い求めるのは欧米人のみ。島村さんは花卉栽培で生計を支えた。

 その名前が広まるようになったのは、75年に大手メーカーがブルーベリージャムを売り出してからだ。需要が増えると、長野、群馬、山梨など全国に栽培農家が増えていった。

 師弟二人で原産地の米国ジョージア州のアトランタを訪ねた時のことだ。島村さんがラビットアイ系の生果を頬張った時、その味に衝撃を受けた。日本でジャムなどの加工用に流通していたブルーベリーは「本来、生で食べる果物なんだ」と繰り返していた恩師の言葉が腑に落ちた。

 産業として成立させるには、加工用よりも単価の高い生果用に生産する栽培技術を確立する必要がある。以後、その時の味を目標に工夫を重ねた。ポイントは果実が色づいてから収穫までの時間と温度だった。それに気づいて納得できる味を出せるまで20年を要した。「でも苦にはならなかったですね。先生が亡くなった後も『先生のお手伝いをしている』という気持ちでした。それは今も変わりません」と島村さんは語る。

 

左から岩垣教授、米ジョージア州立大学のブルーベリー研究者夫妻、島村さん(1980年代初め、島村ブルーベリー園)

 

健康・自然志向を背景に普及

 

 ブームに火がついたのは、2000年に入ってテレビの生活情報番組が次々に「栄養豊富」「目や腸にいい」といった健康効果に着目してブルーベリーを取り上げてからだ。

 2006年、小平の生産者らが「小平ブルーベリーの会」を設立し、収穫時期の8月に「小平ブルーベリーまつり」を開催。こうした動きを追い風に2008年には市と地元の商工会とJAが「小平ブルーベリー協議会」を設立し、この北米原産の果物を地域ブランドとして確立するための収穫支援や商品開発に取り組んだ。ブルーベリーを使った和菓子や洋菓子、ワイン、アイス、ジャム、ジュース、手巻寿司や麺類まで登場し、嘉悦大学の学生は「ブルーベリープリン」を企画開発した。

 さらに市はシンボルマークのデザインを地元の武蔵野美術大学に依頼し、愛称は2008年、市民公募によって「ぶるべー」に決まった。市職員と学生有志がオリジナルソングを制作。着ぐるみのぶるべーは今も事あるごとに各種イベントに顔を出している。

 

ぶるべー

ぶるべーの着ぐるみ

 

 市内の全小学校にブルーベリーの苗木を植えたり給食に出したりと市はあの手この手で普及に努め、今や特産物としてすっかり定着した小平産ブルーベリー。「今後はいかに他の自治体や事業者と連携してアピールしていくかが課題」(こだいら観光まちづくり協会)という。

 

花小金井駅南口ロータリーの標柱

花小金井駅南口ロータリーの標柱。傍らにブルーベリーが植えられている

 

 岩垣教授らが編者となり1984年に刊行した『ブルーベリーの栽培』で、東京の栽培状況を報告した島村さんは「自然との触れ合いが強く求められるこの頃、(略)園内で自らの手により収穫したものを食べたり、土地に持ち帰ったりするレクリエーションを兼ねた形式での経営から始めるのも良いだろう」と記した。

 このアイデアは現在、摘み取り体験ができる「観光農園」の急増という形で実現している。都市部で人気の観光農園の広がりによって東京都はブルーベリーの収穫量で近年、トップクラスを維持している。島村さんは「生産者は“観光”に偏らず、もっと味を追究してほしい。消費者に本物の味を知ってもらうことが双方を豊かにするはずです」と話している。
(片岡義博)(写真協力は、こだいら観光まちづくり協会)

 

【主な参考資料】
・『小平市史 地理・考古・民俗編』
・岩垣駛夫、石川駿二編『ブルーベリーの栽培』(1984年、誠文堂新光社)
一般社団法人ブルーベリー協会
島村ブルーベリー園

 

片岡義博
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北多摩戦後クロニクル 第25回
1968年 小平で初めてブルーベリーを商業栽培 独自の地域ブランドに育成
」への2件のフィードバック

  1. 富沢 木實
    1

    でも、国産品は、高く、お菓子などでは、小平でも、安い輸入品を使っていると聞きます。そのあたりの実情も知りたいところです。

  2. 片岡義博
    2

    コメントをありがとうございます。ブルーベリーの輸入量は増加傾向にあり、確かに加工品には比較的安価なチリやアメリカ、メキシコなどからの輸入品が多く使われています。ただ、ブルーベリーはあまり日持ちがしないため鮮度という点では国産が有利です。摘み取り体験が広がっている理由の一つです。

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