「選挙対策」と「人気取り」とジャーナリズム

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2015年12月21日

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第9回

師岡武男 (評論家)
 
 

  政府の政策や政党の公約に対してよく使われる「選挙対策」という評言は、たいてい褒め言葉ではなく、貶し言葉として使われる。「人気取り政策」となると、もうはっきりした悪評だ。来年の参院選挙が近づいて来たので、最近またマスコミと政冶家がよく使う。悪評の趣旨は、票を金で買うような不当な利益供与だとか、口先だけで空約束の嘘の善政だ、などである。要するに、動機不純な善政、悪政、あるいは嘘つきなどという「泥」のついた「レッテル」にされてしまったのである。

 確かにそれが当たっている場合もある。しかし選挙も人気も、民主主義の社会にとっては本来大事なキーワードのはずではないか。選挙の無い民主主義は無いし、人気が無いのに民主主義の看板を掲げる国は、偽物と言うしかないだろう。つまり、良い政治には良い選挙対策があり、人気の出る政策が無ければならないはずである。

 もちろん、良い政治も良い人気も、相手は一部の人々ではなく全国民(英語で言えばピープル)でなければならない。それは大変難しい仕事である。だから政治家は人格高潔で有能な人でなければ困るのである。そういう人を選挙で選ぶには、まず有権者が賢明でなければならない。これもまた大変難しいことだ。

 それにしても、「選挙」と「人気」に、こんなに泥を塗られてしまったのはなぜだろうか。一番の原因は、明治以来の官僚政治だろうと、私は思う。そもそも、国を統治するのは「天皇の官吏」による官僚政治だった。官僚が、自分たち以外のものに権力を分け与えるような選挙や政治家を嫌うのは当然である。それらは私利私欲で汚れた汚いものだ、という空気が陰に陽に醸し出されてきた。新聞もそれを煽った。

 その官僚政治は、敗戦後の占領政策と民主主義憲法下でもがっちりと生き残った。選挙も政治家も「汚いもの」というイメージもしっかりと残された。選挙運動はがんじがらめに制限され、「清き一票」という妙な言葉も相変わらずだ。マスコミはこの空気を温存することに熱心で「選挙対策はダメ」「人気取りはダメ」という音頭をとっている。

 こんな情けない選挙環境で、民主主義政治が発展できるわけがないだろう。どうしたらいいか。何よりもジャーナリズムの姿勢を変えてもらいたいと思う。政党と政治家に対しては、国民の人気を得られるような、「よりよい選挙対策」「よりよい人気取り政策」作りに励むことを勧奨してもらいたい。それには、国民の生活改善に何が必要か、何が良くないことかを調査して、報道し論評することが必要だろう。そういうまともな選挙を繰り返すことで、民主主義の社会がだんだんとできてゆくのではないだろうか。

 最近の政情を見ると、世論(人気)の支持率に一喜一憂する一方で、世論がどうあろうと憲法がどうあろうと「千万人といえども我行かん」と言わんばかりの暴政が目に余る。国民のための「番犬」としてのジャーナリズムの出番のはずだ

 

 

【筆者略歴】
師岡武男(もろおか・たけお)
 1926年、千葉県生まれ。評論家。東大法学部卒。共同通信社入社後、社会部、経済部を経て編集委員、論説委員を歴任。元新聞労連書記長。主な著書に『証言構成戦後労働運動史』(共著)などがある。

 

 

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