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「書物でめぐる武蔵野」第4回 柳沢に原爆?

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年1月28日

杉山尚次(編集者)

 前回「鉄道忌避説」について書いたら、つい最近1月7日の東京新聞が、《JR目黒駅が目黒区ではなく品川区にあるのは、地元農民の反対によって位置がズレたため》という説があることを最終面でほぼ1ページ使い、イラスト風の古地図まで入れて記事にしていた。「真相は謎のまま」とは述べているものの、「忌避説」定番の「煙害」や「古老の話」がもっともらしく紹介されている。伝説がウイルスのように伝播していく見本のような記事だといえなくもない。伝説は知らないうちに感染うつってしまうのだ。

 

 では、こういうのはどうだろう。
 第二次大戦中、東久留米駅から中島飛行機の工場への引き込み線があったことをこの連載の2回目に書いた。実をいうとこれは文書を読んで知ったのではない。それを教えてくれたのは、筆者が小学校2、3年のときの担任教師だった。今から半世紀ほど前のことだ。

 

 この久留米第二小学校の先生*は、勉強より遊ぶのが好きで、しょっちゅうクラス全員を学校外へ〝散歩〟に連れ出したり、雪が降ると (たぶん授業をつぶして) 校庭で〝かまくら〟を作らせたりするような人物だった。〝散歩〟好きだから地元のあまり知られていない歴史についても語っていた。

 

 「落合川の落合橋の近くに三角山というちっちゃい林があって、こんもり土が盛り上がっていますね。あそこは戦争中の防空壕だったところです。このへんもアメリカ軍の爆弾がたくさん落ちたんですが、空襲があるとそこに逃げ込むようにしていたんです。でも、入っちゃいけませんよ」とか、口調は創作だが、そういう話も聞いた。

 

 その流れだったか、「学校の南側に西武線の陸橋があるでしょ。その横には線路がないのに陸橋の台が残っています。それは引き込み線の跡なんです。戦争中、東久留米駅から中島飛行機の工場へ……」という話を聞いたのだった。

*注 この先生は小林利久さんという。1991年、処女出版である『子どもと本のふれあいをもとめて』(岩崎書店)を上梓する直前、病気のため50代なかばで亡くなったようだ。

 

戦争遺跡〝散歩〟

 

 当然、悪ガキどもは実地探索をした。思った以上に生々しい戦争跡を見た記憶がある……が、こういう記憶はほとんど想起である、と考えたほうがいいだろう。

 

 しかし、もちろんこれらは伝説ではない。前にも引用した『東久留米の戦争遺跡』(2019年、東久留米市教育委員会)* には、空襲や防空壕のこと、陸橋跡も紹介されている。

*注 「歴史ライブラリー『東久留米の戦争遺跡』刊行 戦争を知らない世代にも読んでほしい」(川地素睿)(ひばりタイムス 2019年7月28日

 

 後から考えてみると、この先生の散歩とか地元の歴史への興味といった嗜好は、間違いなく筆者に伝染している。

 

 人の考えがウイルスのように伝わる、という意味は大きいと思う。どういう意図で話したかは問題にならない。勝手に伝わることもあれば、伝えたくても伝わらないことは多い。フェイクニュースが凄い勢いで拡散されることだけを言っているのではない。そうした負の側面だけでなく、どんな小さい思考でも、なんらかのきっかけで伝播する可能性がある、という意味でもある。この可能性は希望ともいえる。

 

鉄橋の橋台。

今も残る引き込み線の痕跡。鉄橋の橋台。

送電塔

橋台の落合川をはさんだ対岸にも引込線の跡である土手がある。戦時中、この土手は東久留米駅に続いていた。

 

田無の空襲

 

 さて、この近辺を〝時間散歩〟すると、武蔵野の底には軍事があることに気づく。これは比喩ではない。たとえば筆者の自宅の50メートルも離れていない民家の下に不発弾が埋まっていて、1975年、それが撤去されたことがあった。自衛隊が出動、その家は爆弾撤去のため一時解体、近隣住民は避難、という結構な騒ぎになった。

 

 不発弾があるのは、このあたりを米軍が集中的に攻撃したことの証拠みたいなものだろう。狙いは何度も述べてきた中島飛行機の工場。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲は知る人も多いが、米軍がまず攻撃目標としたのは、都心より武蔵野のこの飛行機工場だった。昭和19年11月24日、B29が中島飛行機武蔵工場を爆撃。以後、武蔵野の軍事地帯はもちろん日本本土への空襲が本格化していった。『東久留米の戦争遺跡』の表(p75)によると、この地域への空襲は17回あった。

 

 田無駅前は当時も街だったので、昭和20年4月12日の空襲で、どこに爆弾が落ち何人が亡くなったかを示すイラスト地図が、『田無の戦災誌』に載っている(pp186-187、1982年、田無中央図書館)。

 

田無駅前の空襲地図

田無駅前の空襲地図

 この戦災誌には、空襲体験者の談話も掲載されている。「顔」が見えるこうした記録は戦争をよりリアルなものにしている。

 

《(4月12日の話。逃げていたところから)トボトボ歩いて帰ったのですが、総持寺まで来た時、足が震えて涙は止まらないし、どうすることもできませんでした。本堂前にズラーッと爆弾でなくなった方の遺体が並べてあるんですもの。》

 

 田無の〝古層〟には、このような事実が多数埋まっている。軍需工場の近くというのは、そういう場所だということを頭に入れておいたほうがよさそうだ。

 

柳沢へは「原爆」

 

 田無の隣、柳沢には驚くべきものが落ちていた。「原爆模擬爆弾」である。
 武蔵野の書物を〝散歩〟していてたまたま読んだ『多摩と甲州道中』(新井勝紘、松本三喜夫編、2003年、吉川弘文館)に「(1945年)七月二十九日に田無町には原爆の模擬爆弾一発が投下訓練のために落とされている」という記述があった。「模擬」?と思っていたところ他の本で疑問が解けた。

 

 模擬の原爆といっても4.5トンもある本物の爆弾で、それにより3人の方が亡くなっている。爆弾が落とされたのは現在の柳沢の「しじゅうから第二公園」近くだったようだ。これは『戦争の記憶を武蔵野にたずねて』(牛田守彦、高栁昌久、2005年、ぶんしん出版)という本でわかった。

 

『じゃがいも畑へパンプキン』

『じゃがいも畑へパンプキン』の表紙(クリックで拡大)

 さらにもっと詳しい記録が刊行されている。ブックレット『じゃがいも畑へパンプキン—西東京市にも落とされた模擬原子爆弾』*(西東京に落とされた模擬原爆の記録を残す会、2015年)がそれだ。同書によると、「模擬原爆」はここだけではなく、45年7月20日から8月14日までの間に合計49発も日本に落とされている。柳沢のものは長崎に投下されたプルトニウム型原爆と同じ球体タイプ。表面の塗装が黄色なのでパンプキン(カボチャ)と呼ばれたという。例によって中島飛行機武蔵工場を狙ったもので、それが目標から逸れて柳沢で爆発した。

 

 原爆は武蔵野に落ちていてもおかしくなく、米軍はそういう想定をしていたということだ。何が何でも日本に原爆を落としてやる、という意志が感じられて空恐ろしくなる。

 

 訓練のために人を殺すのは犯罪ではないのか。そもそも無差別都市爆撃は国際法違反である、という見解がこのブックレットに示されている。また、日本への無差別都市爆撃の遠因となったのは、皮肉なことに日本軍による重慶無差別爆撃(1939~41)だったということも(ヒトのことは言えない、ということだ)。

 

 戦争は殺し合いなのだから、「なんでもあり、なにをやってもいいわけ」ではない。しかし、そうならないところが戦争である、ということをよくよく考える必要がある。

 

 おりしもこの1月22日、核兵器禁止条約が発効した。核兵器を非人道的で違法と明記し、開発、保有、使用を全面的に禁じ、廃絶を目指す初の国際法規である。核を保有する米国、ロシアは条約参加を拒否している。米国の「核の傘」に依存していることを理由にこの条約に参加していない日本政府に対して批判の多い。

*なお、このブックレットは「ひばりタイムス」でも紹介され、著者のインタビューも載っているので、ご参照あれ。
**「思考が感染する」という発想については、村瀬学氏の吉本隆明についての講演(2020年3月22日、北海道横超忌)を参照しました。

 

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「書物でめぐる武蔵野」第4回 柳沢に原爆?」への2件のフィードバック

  1. 福原加壽子
    1

    日本の地下にはたくさんの歴史が埋まっている。古代から現代まで。縄文の記憶は素晴らしいが、現代に近づくにつれ人間の過ちの記憶のようでもある。

  2. 杉山尚次
    2

    コメント、ありがとうございます。鉄橋跡から下流に500メートルほど行くと縄文遺跡があります。川の上には時間が重層しています。たしかに人間はろくなことをしませんね。

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