空襲

北多摩戦後クロニクル 第1回
1944~45年 北多摩の空襲 標的にされた軍事基地圏

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年1月3日

 

 私たちが暮らす地域は戦後、どのような道をたどって現在に至っているのだろうか。連載企画「北多摩戦後クロニクル」は、北多摩北部(東村山・清瀬・東久留米・西東京・小平の5市)を中心とする地域の戦後の歩みをトピックごとにたどることで、地元を見つめ直し、東京郊外が映す戦後日本を点描する(毎週火曜掲載)。第1回は北多摩地域が第2次大戦時に経験した空襲を取り上げて戦後への導線としたい。(写真は、焼夷弾で消失した農家。1945年5月24日、現西東京市芝久保町。西東京市図書館所蔵)

 

本土空襲の第一目標

 

 1944(昭和19)年11月から翌年8月の敗戦まで、多摩地区のほぼ全域が米軍のB29などによる激しい空襲に見舞われた。その数、40数回、犠牲者は1500人以上。ただし、戦災をめぐるこうした数字は資料や発表元によって異なり、必ずしも確定していない。

 当時、多摩地区には100を超える軍事施設と軍需工場が集中していた。最も多く爆撃を受けたのは、保谷町(現西東京市)に隣接する武蔵野町(現武蔵野市)にあった中島飛行機武蔵製作所だった。当時、4万5千人の従業員が24時間体制で働き、日本の軍用航空機エンジンの3割近くを製造していた。東洋最大の飛行機製造工場は本土空襲の第一目標にされ、11月24日、本州で最初に空襲を受けた。

 

B29

写真 中島飛行機武蔵製作所を爆撃するB29(1945年8月8日、米国議会図書館所蔵)

 

 犠牲者、回数ともピークに達したのは1945年4月の空襲だった。北多摩地域周辺に絞って主だった被害を記すと、4月2日の夜間空襲では照明弾で地上を照らしながら低空からの爆撃が広範囲に行われた。北多摩東部から埼玉県南部に降り注いだ爆弾は4000発以上。保谷町には250キロ爆弾の信管が数時間後に炸裂する「時限爆弾」が投下され、全域で女性、子ども多数を含む民間人250人以上が犠牲になった。

 4月12日には武蔵製作所の北側に1トン爆弾が多数投下され、田無駅前の防空壕で30数人、駅周辺だけで50人以上が死亡する田無町の空襲最大の惨事になった。西東京市はこの日を「西東京市平和の日」と定めて毎年、記念行事を行っている。

 7月29日、武蔵製作所を目標に投下した爆弾はやはり北側に外れて柳沢で爆発した。「パンプキン爆弾」と呼ばれた原爆の模擬爆弾だった。B29が原爆のきのこ雲に巻き込まれないための投下訓練だった。この模擬爆弾は敗戦までに全国で計49発投下された。

 

1トン爆弾の実物模型

「西東京市平和の日」の記念行事で展示された1トン爆弾の実物大模型(2019年4月12日、撮影@ノースアイランド舎)

 

農村地帯の変貌

 

 畑や平地林が広がる農村地帯だった多摩地区が、巨大な軍事基地エリアとなったのはなぜなのか。

 まず平坦で広大な土地は造成しやすく、地価が比較的安かった。東西南北に鉄道や道路網の整備が進んで物資や人員の移動に便利だった。豊富な地下水と農村の潜在労働力があった。そして陸海軍の中枢機能が集中する都心に近かった。

 そこに日中戦争による軍需景気がわき起こった。戦火が本格化する1938年、武蔵野町に中島飛行場が建設され、周辺地域に多数の関連会社、下請け会社、研究所が建設される。さらに府中、小金井、国分寺、小平などにも軍事施設や軍需工場が次々造られていった。

 1922(大正11)年に陸軍航空部隊の中核として立川に開設された立川陸軍飛行場は拡大、強化され、38年には航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点になった。農業や繊維業が中心だった多摩の地場産業は軍需産業に転換し、人口も急増して工業化、都市化が一気に進んだ。

 大戦末期になると、重要工場の疎開が閣議決定され、南多摩、西多摩地域に多くの工場が移転し、多摩地区全体が軍事基地化の様相を強める。なかでも飛行機工場のある武蔵野地区、飛行機工場と軍の施設が集中する立川地区、八王子地区は戦略爆撃の目標とされ、周辺地区を巻き添えにして集中的な爆撃を受けた。

 空襲によって工場の多くは壊滅した。敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は立川飛行機の全施設、旧陸軍施設を次々に接収した。一部は農民に返還されたが、軍事施設や軍需工場は占領期から冷戦時代、米軍基地として朝鮮戦争とベトナム戦争などの後方補給基地となった。さらに自衛隊が基地として使用し、一部は都営住宅、都市公園、大学用地などの公共施設、都市施設に変わった。

 

戦災変電所

空襲の痕跡が残る東大和市の旧日立航空機株式会社変電所

 

戦跡を訪ね歩く

 

 激しい空襲を受けた北多摩地域では、1970年代以降、自治体や市民の手で戦跡や空襲体験者の証言を記録する取り組みが活発に行われてきた。

 爆風に吹き上げられて欅の木にあわれ死体をさらせし教え子

 4月12日の空襲を詠んだ田無国民学校(現在の小学校)教員、塚田クメ子さんの短歌は、そのまま凄惨な光景の目撃証言でもある。

 戦争の傷跡を訪ね歩く戦跡フィールドワークも各地で開催されている。2022年12月11日には西東京市内の戦跡を見て回る「この町にも戦争があった」(芝久保公民館主催)が開かれた。「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」代表の牛田守彦さんの案内で、空襲で頭部が行方不明になったとされる地蔵菩薩像(芝久保)や戦災慰霊塔のある総持寺(田無町)など計6カ所を市民20人が巡った。

 

空襲

4月12日の空襲で家族6人を失った濱野重男さんの墓前で語る牛田守彦さん

 

 20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれた。ウクライナ戦争を挙げるまでもなく、21世紀の今も世界で戦争や紛争は相次いでいる。しかも人工知能やドローンを使った最新兵器が人々から戦争のリアリティーを奪っている、と牛田さんは語る。

 「一人ひとり名前を持ち、家族がいて、未来がある人の命を奪うのが戦争だ。身近な石碑やモニュメント、慰霊碑が示す小さな歴史は大きな歴史につながり、現在にもつながっている。自分の足で歩いて、自分の目で見るフィールドワークを通じて、自分が暮らす地域にも悲惨な出来事があったことを知り、そこからさらに戦争の原因や背景を学んでいってほしい」
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・小沢長治著『多摩の空襲と戦災』(けやき出版)
・たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』第35号「多摩の戦災史」、第79号「特集 戦時下の多摩」、第119号「特集 戦時下の地域社会」、第141号「特集 戦時下の地域社会その2」
・『田無市史』
・『保谷市史』

 

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