武蔵野

「書物でめぐる武蔵野」第16回 渋谷だって武蔵野である(あった)

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2022年1月27日

杉山尚次(編集者)

 国木田独歩の『武蔵野』は武蔵野を描いたもっとも有名な書物である、といって異論はでてこないだろう。あまりに典型なので、これまで触れてこなかったのだが、ここらで真打にご登場いただくことにする。
 写真は、筆者が所有する1967年改訂版の新潮文庫『武蔵野』。晩秋の雑木林と農家。ここに描かれている風景は「これぞ武蔵野」といえるもので、このイメージは「武蔵野の面影を残した」というフレーズとともに、いまも紋切り型として生きている。

 

国木田独歩の「武蔵野」

 

 『武蔵野』という単行本は、明治34(1901)年に刊行された国木田独歩(1871~1908)初の短編集。「武蔵野」と題されているが、この地をめぐる短編連作ではない。標題の「武蔵野」という作品は明治31年の発表で、初出は「今の武蔵野」と題されていた。手持ちの文庫ではわずか26頁の短編。しかしながら、この作品を読んでいなくても、「独歩の武蔵野」はだれでもと言いたくなるほど知られている。

 それは近代の日本文学を語るのに不可欠だから、とひとまずはいうことができる。実際、この短編集は試みに満ちていて、「武蔵野」のようなエッセイ風の作品、「忘れ得ぬ人々」のような〝オチ〟のある小説らしい小説、擬古文で書かれたもの、モーパッサンの翻訳まで収載されている。近代の文体を模索し、いわゆる言文一致の文体をつくりあげていくための作品集のようにも思える。

 年譜を見ると『武蔵野』が刊行されたとき、独歩は31歳。それまで彼は10代で文章を発表し、キリスト教の洗礼を受け、新聞記者になったり、柳田国男や田山花袋たちと文芸活動をしたり、結婚したものの嫁さんに逃げられるなど、忙しい人生を送っていたようだが、この本は結果的にはひとつの達成となった。「武蔵野」と同年発表された「忘れ得ぬ人々」は、日本の文学史にとどまらない影響をもつ作品である。もっとも発表当時はさほど高い評価を受けなかったようで、独歩の文名があがったのは明治39(1906)年のこと。ところがその翌々年の明治41年に、独歩は病没している。38歳だった。

 

「武蔵野」を精読

 

 短編「武蔵野」が小説かどうかを問うことに意味はないだろうが、あえていうと「風景」が主役となった小説といえるかもしれない。この(独歩の)「風景」というキーワードをめぐって、さまざまな考察がなされてきた。

 最近でも新書をまるまる1冊つかって「武蔵野」を精読した本が出ている。「東北学」で知られる赤坂憲雄の『武蔵野をよむ』(2018、岩波新書)である。

 

《五感を研ぎ澄まして紡がれた自然描写がいい。冬枯れの武蔵野である。…日の光、雲の色、風の音。時雨が囁き、凩が叫ぶ。…》
《独歩は…ひたすら眼を凝らし、耳をそばだてた。瞑想をうちに宿した歩行と思索、すなわち散策は、いかにも近代に固有の旅のスタイルではなかったか。独歩その人がまさに、それを発見したのである。》(どちらも「はじめに」より)

 

 短編「武蔵野」は1冊を費やすだけの作品である理由が、ここに述べられている。たかが近場の「散策」とあなどってはいけない。そこには「風景」の意味、個人の「内面」やら「近代」のあり方など、奥深いモンダイが秘められている。それを「発見」したのは独歩であり、その独歩をさまざまな論者がさらに「発見」することになる。

 われわれは、それらを起点にして、近隣を散歩する意味や愉しみを広げることができる。

 この『武蔵野をよむ』の冒頭に、『武蔵野』が出された明治34年の地図が掲載されている。

 

武蔵野の地図

「明治34年修正改版、陸地測量部20万分の1 縮尺地図「東京」より、発行:国土地理院」

 

 これは非常に興味深い地図だ。気づいたことを挙げてみよう。

 ①西に延びる鉄道は、中央線と現在は西武鉄道の国分寺線+(川越に至る)新宿線になっている鉄道だけ(拙文連載第2回「幻の路線を推理してみた」参照)。山手線はまだ「円」になっていない。「高輪ゲートウェイ」駅ができたときに遺跡が出て話題になったが、新橋から品川までは海の上を線路が走っている。
 ②青梅街道上の「田無」は目立つ位置にあり、ちょうどその「下」には「武蔵野」にも登場する「境」(武蔵境)駅がある。
 ③渋谷は、市街地から微妙にズレているようにみえる。

 ①②について触れていくと先に進めないので、ここでは③について述べる。

 

「武蔵野」だった渋谷

 

「幼年」「少年」

大岡昇平著「幼年」「少年」の表紙

 独歩は「(明治)二十九年の秋の初から春の初まで、渋谷村の茅置(ぼうおく、かやぶきの粗末な家)に住」み、当時の日記をもとに「武蔵野」を書き、明治31年に発表している。その家は現在のNHK近く(碑があるようだ)で、周辺には林があり、独歩はそこを散策し思索を深めていったのだろう。つまり、当時渋谷は「武蔵野」だったのである。だから市街地から外れていて当然なのだ。

 それでは、渋谷はいつまで「武蔵野」だったのか。少なくとも大正期はそうだったのではないか、と想像できる。というのも、当時の渋谷に住んでいた大岡昇平が、自伝である『幼年』『少年』で、のどかな渋谷の様子を地図付きで詳しく書いているからだ。

 その図が『武蔵野をよむ』に引用されている*。これは、大正7(1918)年頃(大岡は10歳)、大岡家が渋谷駅の東側の家から、宇田川町あたりにあった「大向橋の家」に引っ越した頃の略図で、ここには「国木田独歩の家」が記載されている。

 

渋谷地図

渋谷周辺の地図(『少年』講談社文芸文庫 p11)

 

 独歩の家は「衛戍監獄」の隣にある。この監獄は後の「陸軍刑務所」で、二・二六事件の首謀者たちはここで処刑されている。その北には雑木林や「代々木練兵場」があり、「武蔵野」に「遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起る銃音(つつおと)」とあるのは、これゆえだろう。

(*『武蔵野をよむ』は『幼年』からの引用としているが、引用元は『少年』の間違いだろう。『幼年』には、渋谷川に近い、つまり渋谷駅の東側にあった大岡家周辺の地図が載っている)

 

武蔵野の領分

 

 渋谷が「武蔵野」だったら、ではどこからどこまでが「武蔵野」なのか、という議論が当然出てくる。独歩は作品中「七」で「朋友」を登場させ、「僕(友人*)は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している」と書き、具体的に「武蔵野の領分」を挙げている。

 まず、「東京」が除外される。この「東京」の意味ははっきりしない。とりあえず「都会」としておこう。しかし「町外れ」はまさしく「武蔵野」であるとして「渋谷の道玄坂」、「目黒の行人坂」、「早稲田の鬼子母神」、「新宿、白金」……が挙がっている。

 そして範囲の確定。「雑司ヶ谷」を起点に北上、「板橋」から西に「川越」まで、そこから南下して「武蔵野」の冒頭に登場する「入間郡」の「小手指」「久米川」を経て「立川」。この間の「所沢」「田無」は特に緑深い夏は「趣味が多い」とのこと。立川からは多摩川を限界として「上丸」まで下り「下目黒」に戻る。この間「八王子」は除外されているが、「布田」「登戸」「二子」も詩趣深いとされている。

 東側も、「亀井戸」あたりが挙がっているが、「友人」も独歩も異論があれば外してもいい旨書いているので、深入りしない。

(*『武蔵野をよむ』によれば、これは今井忠治という同郷の友人のことで、文体からして実際にそういう手紙があったのでは、と想像している。p154)

 

ステレオタイプなイメージ

 

 独歩は「武蔵野」の領域を定義づけようとしているように見える。しかしそれは、あまり意味をもたなくなったともいえる。というのも、東京という都市は発達していき、そこに属する街々の機能も、イメージも変わっていったからだ。また、「武蔵野」のイメージは特定の場所を離れ、独り歩きしていったということもある。

 柳田国男は、大正8(1919)年の随筆「武蔵野の昔」の冒頭で、「近年の所謂武蔵野趣味は、…国木田独歩君を以て元祖と為すべきものである」と述べている。「武蔵野」は国木田独歩によって「発見」された。この発見された「武蔵野」は、地域の名前としてのそれではなく、「風景」としての「武蔵野」であり、「武蔵野」というコンセプトであるといえよう。「武蔵野趣味」はまさにこのコンセプトだ。

 このように大正期には、独歩以後の「武蔵野」イメージが流通していたことになる。しかし、「武蔵野趣味」のようなイメージが成り立ち、それが自明なものになると、それがどういう由来で成り立ったのかは隠れてしまう。

 柳田国男は、「彼(独歩)はやはり享保元文の江戸人の、武蔵野観の伝統を帯びたものであった」(前掲書)と指摘しているが、そういった議論は見えなくなり、人びとが簡単に想起できるステレオタイプなイメージが広まっていった。たとえば、それは、冒頭にあげた「いわゆる武蔵野」の絵のイメージということになる。

 その一方、「渋谷」の例を挙げるまでもなく、明治期から現在まで現実の「武蔵野」は大きく変貌を遂げていった。しかし「武蔵野」というイメージは変わらず続いていると思う。

 

ただの人の「小さな物語」

 

 当然ながら、武蔵野がイメージとして流通することなど考えていなかった独歩は、「武蔵野」の最後の節「九」で、先に挙げたような場所がなぜ「頗る自分の詩興を喚び起す」のか、述べている。

 

《町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思をなさしむるからであろう。》

 

 これに続けて、そこには「小さな物語」が、「哀れの深い」あるいは「抱腹するような物語」が「軒下に隠れていそうに思われる」と書く。そして「小さな物語」に登場する者の例まで挙げている。「片目の犬」「小さな料理屋」「鍛冶工」「野菜市」「床屋」「酒屋」「納豆売」……。

 独歩は、なんでもない雑木林に詩興を見出したのと同じように、市井の「ただの人」に詩興を「発見」した。短編「忘れ得ぬ人びと」は、親子、教師先輩、友人といった「忘れて叶うまじき人」ではなく、「赤の他人」なのになぜか「忘れ得ぬ人」をめぐる物語である。なんでもない風景、ただの人が主役のリアリズム。2つの短編は、このへんでつながっている。

 こうした一連の独歩の「発見」については、興味深い議論がまだまだある。次回もこの続きを書かせていただきたい。

※この連載のバックナンバーはこちら⇒

 

杉山尚次
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